さらには、主な登場人物──派遣社員の境遇に怒りとシンパシーを抱く人、自分の現状に迷い悩むニュースキャスターに共感する人、ジャーナリズム志向の強い記者を英雄視する人……どの人物に感情移入して、どの視点で見るかも、その人自身が置かれている立場や環境によって違ってくるんです。
一方で、あるメディアの労働組合の勉強会で上映されたときには、上映後に出た質問がロケの時間や番組予算を尋ねるようなものばかりでガッカリしたこともあります。丁寧に答えていたんですが、だんだん腹が立ってきて、「テレビ局の中に、正社員と派遣といった『階層』があるという現状が描かれているのに、そこについての問題意識を持たないのですか」「労働組合として、これは労働における人間疎外だとは感じないのですか」とアジテーションしてしまいました。ずいぶんテレビマンは感じる力を落としているんだなと思いました。『さよならテレビ』は、感じたり何かをつかまえたりする能力がすごく問われる作品だと言えるかもしれません。
──映画の最後には、それまで見てきた内容が一気にひっくり返されるような「どんでん返し」的な場面も出てきますね。
阿武野 東海テレビ局内でも、あの場面は「ない方がいいんじゃないか」「カッコつけすぎだ」といった意見もありました。でも、ドキュメンタリーっていったい何なんだ? ということをもう1回突きつけるという意味では、大きな力を持っているシーンだと思います。
実は、スタッフの1人が、あの場面を見て落涙しました。「ここまで自分たちのことを悪く描く必要はないんじゃないか」って。そのスタッフには、そういうふうに見えるシーンだったんですね。
でも、これまで作られてきた「メディアリテラシー」の番組は、テレビ局の華やかで意義があるきれいな部分だけを見せて、幻想を振りまくものばかりでした。それと同じことを繰り返しても仕方ないと思うんです。私は、華やかでも、美しくもない部分も見せて、「裸」のリアリティを示したい。隠ぺい体質の組織は問題を起こしやすい。自分たちはここまで裸になれる、オープンになれるということを示せる方が強い組織だと思うのです。
作り手と視聴者との「豊潤なコミュニケーション」を
──冒頭で「セシウムさん事件」への「答えを出していなかった」ことが、この企画を前に進める動機の一つになったとおっしゃっていました。作品を通じて、その「答え」は提示できたとお考えですか。
阿武野 自分ではできたと思っていますが、見る人がどう思ってくれるかは分かりません。この先も、まだまだ時間をかけて取り組んでいかなきゃならない問題なのだろうと思います。
ただ、映画の中で、また別の小さなミスによるトラブルが出てくるように、ミスというのは日常的に起こるものです。そのときにどうするかということにテレビの今が見えると思うんです。
今の社会では、どういう状況下でミスが起こったのか、それをどうカバーしようとしているのかといったことも一切無視して、すぐさま「ミスしやがって、けしからん」という罵声が投げつけられてきます。いわゆる「炎上」ですね。誰もがそういう状況に怯えているところがあります。
でも本来なら、日常とは実はミスの積み重ねだよね、という前提に立ち返りながら、もっと冷静にやりとりをしたい。もちろんテレビ局も、自分たちがどれだけ大きい、重いものを社会から託されているのかを改めて自覚し直す。そうした関係性の中から、メディアがもう一度生まれ変わって、市民社会の中で成熟していくチャンスも生まれてくるはずです。でも、今は受け手が感情のままに怒りだけを投げつけ、テレビは投げつけられないように安全なものしか作らない……そこで止まってしまっている気がします。
──先ほどおっしゃっていた、作り手と受け手の「コミュニケーション」が成立していない状態にある、ということでしょうか。
阿武野 少なくとも、私が夢見ていたような、豊潤なコミュニケーションは成立していないと思います。
これは映画を作り始めて気づいたことですが、映画の場合は、映画館という同じ空間を共有することで、観客はここで笑い、ここで泣き、ここでため息をつくんだなというような反応がその場で感じ取れるんですよね。うちのスタッフもよく、自分たちの作品を映画館に見に行っていますが、観客の反応を目の当たりにすることで、「この部分はやっぱり必要なんだな」とか、「こういう説明は不要だったんだ」とか、いろんなことが分かる。そういう見てくれる人と作り手の間のコミュニケーションによって、さらにいい作品・表現へと向かっていくんです。
それに対してテレビは、「放送」という言葉のとおり「送りっ放し」になっているところがある。手紙や電話、メールに励まされることもあるけれど、相手の顔が見えないと、人はここまでひどいことを書けてしまうのか、と思うような反応にガックリくることもあります。
──テレビと視聴者との間にも、もっと「豊潤な」コミュニケーションを生み出せる可能性はあるでしょうか。
阿武野 私たちはこれまでのドキュメンタリーシリーズの積み重ねを通じて、地域の皆さんとの関係性が変わってきたという実感はあります。
たとえば今年(2019年)は、東海地方に大きな被害をもたらした伊勢湾台風から60年の年でした。他局はみんな「風速何メートルではこんなことが起こります」「水の勢いはこのくらいです」といった、「どう災害から身を守るか」という内容が中心の特番を組んでいました。その中で、私たちは『はこぶね』という、伊勢湾岸の干拓地に入植してすぐに台風で家を流された人たちを中心に置いたドキュメンタリー番組を放映したんです。
──どんなテーマの作品だったのですか。