例えば我が家の場合、私は親の母国語である中国語や台湾語が片言で、反対に両親は日本語が片言です。それでも私たちは通じない言葉やかみ合わない言葉を駆使して互いを受け入れることがありました。
ただ、日本で暮らしているとどうしても、こういう自分の家庭の状況は、ほかの子と比べると異常だと思わされるんですよね。本当はそれぞれ片言でも互いにわかり合っていればそれでいいのに、一つの国語に統一されていない自分の家庭の状況を私はどこか恥じていた。だからこそシメーヌ・スレイマンさんの「愛が翻訳の中で失われることは決してなかった」という言葉には勇気づけられました。
翻訳のなかで生み出されるもの
栢木 英語に「ロスト・イン・トランスレーション」という表現があります。「翻訳の過程で何か大事なものが失われてしまう」という意味の言葉です。翻訳が話題になる際、どうも「失われる」という側面が強調されすぎてきたんじゃないかと最近よく思います。翻訳をやっていますと、ある言語では簡単に言える事柄が、別の言語ではどうにもうまく表現できないということは、しょっちゅうあります。ですから、確かに失われるものはあります。もちろん誤訳の問題もあります。でも他方で、翻訳の過程で何か新しいものが生み出されているという側面もあると思うのです。例えば、日本語が母語でない海外ルーツの子どもたちが、母語ではうまく表現できることを、日本語で言おうとすると、たどたどしくなったり、母語の干渉を受けて言い間違いをしたり、独特のイントネーションになったりする場合があります。子どもたちは“翻訳”をしているわけです。このときに情報量が減っているとか、流暢に話せていないと捉えるのではなく、翻訳のなかで何か新しい単語や、新しいリズムの日本語が生み出されているという見方をすることもできると思うのです。ですから日本語を教えていらっしゃる先生たちには、その子たちが話す日本語を「正す」だけではなく、その子たちとの言葉のやりとりのなかで生み出されている何か新しいものにも敏感になっていただければと、翻訳者というか、言葉を仕事にしている人間としては思います。
「母語」と言えば、僕は、温さんが『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社)のなかで書いておられる「ママ語」の話が好きで、何度も読み返しています。子どもの頃は、お母さんが話す日本語は「トンチンカン」だと思っていたんだけど、自分で中国語を勉強するようになって、お母さんの言葉には日本語以外の言語が響いているという事実に気づいたというお話でしたね。
温 私の母は中国語と台湾語を引きずっているので、夜遅くなって空が暗くなったときに「天が黒くなった」と言います。中国語で「天黑了」というのが、「空が暗くなった」という意味なんですね。子どものときは「天は黒くないよ、青だから」と母にいちいち突っ込んでいたのですが、今では、「天が黒くなる」という日本語があっても別にいいじゃないかと思います。
もちろん、それは日本語だけしか知らない人からしてみたら奇妙な表現かもしれない。けれども、暗くなってくると、実際に天が黒いときがあるじゃないですか。この暗さに対して中国語の人たちはずっとそうやって表現してきた。そのことを、そのまま日本語に置き換えて新しい日本語と捉えたらいいんじゃないか、ということに気がついたんです。
栢木 つまり温さんは、お母さんが話す言葉のなかにある中国語や台湾語を再発見したというわけですよね。表に出てくる日本語の背景で、別の言語が同時に響いていたり、別の言語の語彙や文法が透けて見えたりしている。膨らみというか、奥行きというか、そういう言葉の立体感をもっと大事にできればいいなと思います。
温 言葉として外に出てこなければ存在していないという感覚が、人を追い詰めているという気がしています。今は、短い時間で思ったことを説明しなければいけないと変に追い詰められている人が多いと思います。とくにSNSなんかだと、情報の洪水のなかで、本当ならば複雑に入り組んでいるはずの自分の感情にしっくりと合う言葉を時間をかけて吟味するよりは、すでに流通している言葉のほうに自分の感情を嵌めこんだほうが手早く世界に向けて「表現」できたような錯覚に陥りやすい。そのせいで感情はどんどん単純化される。だからこそ、もっと言語以前の気配に敏感になったほうが、わかりやすい言葉にふり回されず、自分自身の感情を尊重することにもつながるんじゃないかな、と思うんですよね。
日本語にとっての不自然さと向き合う
栢木 最近の翻訳では、とくに文芸翻訳の世界では、以前よりもリーダビリティ、つまり読みやすさを重視する傾向があります。日本語として自然な、熟(こな)れた文章にすることが求められます。僕はこれまでは主に専門書や学術論文を訳してきたのですが、そういう分野ではいわゆる直訳調がまだまだ幅をきかせているところがあって、そのため僕の訳文にはどうも硬さが抜けないところがあります。ですので、『よい移民』の訳文も「読みにくい」と一部から不評を買っています(笑)。正直「まだまだ下手だな」という自覚はあります。そういうわけで僕も、もっと読みやすい訳文を作れるように、日々勉強はしているのですが、その一方で、そもそも「自然な日本語とは何なのか」という疑問を持っています。果たして、それを目指すことを翻訳のゴールにしてよいのか、とも。翻訳というのは、もともとの言語環境のなかには存在しない物語と出合ったり、主張や論理を考えたりするためにあるわけですよね。今までにない、新しいことを考えるためには、語彙や語法や語感を刷新することが必要になります。ですから、今まで使いこなしてきた日本語の枠組みにうまく当てはまっているという意味での「自然さ」や「読みやすさ」のみを追求するのは、違うのではないかと思うのです。
これは理想論ですが、それほど苦労せずに日本語として読める一方で、英語を読んだような気になる、英語的な響きやロジックが感じられるような、そういう訳文を作りたいと思っています。と、ちょっと大げさに言いましたが、翻訳者はだれしも、原語の雰囲気やリズムを残すことと、日本語としての読みやすさのあいだで、バランスを取りながら、文体を選んでいるはずです。僕の場合、そのとき原語のほうに重心を置きがちと言いますか、日本語としては不自然さが残るようにあえてしているところがあるのです。単純な例ですが、英語では自分の父親のことを話す際、「彼(he)は」と代名詞を使います。これはドイツ語でもフランス語でも、あるいは中国語でも同じですね。これをそのまま日本語にすると違和感が出るから、そういうときは「父は」と訳すのがよい、と翻訳技法のテキストなどには書いてあるわけです。でも、自分の父親を「彼」と名指すということ自体に、その国の家族関係というか、人間同士の距離感というか、大げさに言えば、社会のなかでの「個」のあり方が反映されているはずです。僕はそういうものもひっくるめて伝えるのが翻訳の仕事なのではないかと思っていますので、多少違和感が出ようが、だいたいは「彼」のままにします。こういう場合はむしろ、違和感を出さないと意味がないんじゃないか、とすら思います。