温 私も小説を書くときは、「自然な日本語」とみなされる文章には懐疑的でありたいと思っています。私の場合は、中国語や台湾語という日本語にとって文字どおり異言語を自分の文章のなかに取り込むことが多いのですが、これは、もっとそれ以前の話なんです。たとえ日本語だけで書くときも、いわゆる純文学っぽさや日本文学っぽさに囚われた文章はあまり書きたいと思いません。そうすることで、日本語が本来的に備える可能性を狭めるならなおさらです。だからこそ、純文学とはこうあるべきだ、とありもしない権威をありがたがっている人たちがイライラするようなものをどんどん書いていかなきゃなと感じます(笑)。
日本語が持っている複数性
栢木 話し言葉にも同様のことが言えますね。つまり、「訛(なま)り」をどう捉えるかという問題です。移民の1世がよく経験することですが、自分の訛りを笑いものにされたり、訛りから出自や背景のことをくどくど問いただされたり、もっとあからさまな暴力を受けたりと、そういうことが積み重なったために、自由に言葉を発せなくなるケースがあります。周りの差別のせいで、当人が「普通の」発音とかイントネーションを過剰に意識するようになるのです。そのため、さまざまな響きやリズムを持った多様な日本語、多様な英語が聞こえなくなってしまう。
温 そうですね。日本語とは何かという漠然とした輪郭のなかには、たくさんの襞(ひだ)があるはずです。そうした「日本語の複数性」を表現する上での私の強みは、やっぱり台湾出身であるということ。もっと丁寧に言えば、日本語のほかに中国語や台湾語という別の言語を吸収しながら育ったことにあると思います。私の場合は、自分が置かれた言語環境を作品の中で書くだけで、個人がふつうの暮らしの中で口にしたり耳にしたりする言葉というのは、いわゆる「国語」の教科書に出てくる整った文章とは程遠いと示すことができます。しかし、日本語が持っている複数性は、別に、外国語を持ち出さなくても、もともと誰のなかにもあるはずなんですよね。
例えば、木村友祐さんという作家がいるのですが、彼は青森県の八戸出身の人で、『海猫ツリーハウス』という小説を書いてデビューしました。この作品の魅力の一つは、標準語だけではなく南部弁が織り込まれていること。
ところが彼の作品を読んだ青森出身の方のなかには「この濁音のつけ方は違う、正しくない」と言う人がいたそうです。日本語といっても、標準語以外の価値体系があることを感じさせるあの小説の魅力や迫力を無視して、「正しい南部弁はこうではない」と言いたがるんですよね。
仮に「正しい」南部弁があるとして、しかも、それを啓蒙するのが目的なら、別に小説じゃなくていいと私は思うんですよね。大体、いわゆる標準語だって、話している表現をそのまま書いたら不自然になるはずです。書き言葉と音声言語のあいだにも架け橋があって、それをどのようにつなげるかというところが文学の可能性でしょう。
ところが、読む人によっては「不自然だ」とか、「本物じゃない」という反応がかえってくる。
栢木 「標準」とか「自然」という枠では捉えられない微妙なグラデーションの部分を描こうとしているのに、別の「標準」や「自然」が持ち出されてしまうと、元も子もないですね……。
温 「この濁点、私にとっては自然じゃない」というならわかるんです。ところが、「私の言語観、私の世界観こそがすべて」だと思っている人は、本物かどうかを自分がジャッジしてしまう。翻訳調の日本語に対して「ちょっとこれ不自然だ」というのもそうです。それならば、あなたが言う「自然」というのは何かという話になってくる。国語的なもので線を引いて、例えば南部弁と日本語を分けるのではなくて、「訛り」そのものが日本語の底層にあるという、そういう感覚を持ったほうが面白いと思います。
国語教育のなかにもあった多様性
栢木 温さんはエッセイ『「国語」から旅立って』(新曜社)で、「母語そのものの中に複数言語を作り出す」という多和田葉子さんの言葉を引いておられます。多和田さんのエッセイ『エクソフォニー――母語の外へ出る旅』(岩波現代文庫)からの引用です。それから、かつてリービ英雄さんの作品を読んだとき、簡体字や繁体字を使用していたり、漢字の横にカタカナでルビを振ることで中国語や台湾語の音を表現しているのを見て驚いたという逸話を紹介されています。「日本語って、こんなふうに書いてもいいんだ」と。僕たちが使っている言語のなかにある複数性にもっと忠実であれるような、日本語表現の幅を増やしていかなければならないのだと思います。ちなみにルビは翻訳のとき本当に便利で、字面で意味を伝えながら、ルビで原語の響きを残す、ということができます。さきほどの話にあったように、字と音をずらせるというか、音を重ねられるのです。
そういうことは、別に作家や翻訳者だけに関わる表現や技法の問題ではないと思います。だれしもが日常的に言葉を使っているときに、そうした複数性とそれこそ「自然」に向き合っているんじゃないかと思うのです。日本語では漢字にいくつもの「読み方」がありますね。訓読みと音読みがあるだけでなく、音読みにも複数のパターンがあったりします。例えば、「建てる」という漢字は、「ビルを建設する」というときは「ケン」と読みますが、「寺院を建立する」というときは「コン」と読みます。前者は「漢音」といって、中国の北方から政治や経済や法律の知識とともに伝わってきた音で、後者は「呉音」といって、中国の南方から仏教などとともに伝わってきた音です。僕たちは、そうした歴史的な背景をいちいち意識していなくても、どういう分野の話をしているかによって、音を使い分けたり、聞き分けたりしているはずなんです。
温 国語そのもの、日本語そのものが実は入り交じっているということですね。
栢木 そうです。ハイブリッドですよね。もう一つ例を挙げさせてください。日本では「国語」の授業で漢文というものも習いますね。そこで僕たちが何を読ませられるかと言えば、いわば古代や中世の中国語なわけです。もちろん、レ点とか返り点とか複雑な翻訳技法を駆使して読むわけですが。僕は学生時代、中国に留学していたことがあるのですが、あるとき、中国人の友人がなぜか唐代の詩の話をしてきたので、僕が杜甫とか李白の名前を出しますと、「おまえはそんなものまで読んでいるのか、すごいな」とたいそう褒めてくれました。褒めてくれるので、「義務教育で習った」とは言わず、そのままにしておきましたが(笑)。「国語」というもの自体、実際は「国」の枠を越えていて、多様なものが詰まっているのです。