シンガーソングライターとして半世紀近く、音楽界に君臨してきたユーミンこと松任谷由実が、安倍晋三首相の辞任会見について、2020年8月28日深夜のラジオ番組「松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD」で 、「テレビでちょうど見ていて泣いちゃった。切なくて。私の中ではプライベートでは同じ価値観を共有できる。同い年だし、ロマンの在り方が同じ。辞任されたから言えるけど、ご夫妻は仲良しです。もっと自由にご飯に行ったりできるかな」と感想を語ったことが報道され、私にはちょっとショックだった。
これまで、シンガーソングライターの彼女と安倍首相夫妻がお友達で、一緒に会食する仲であることをうかつにも知らなかった。
ミュージシャンの中でも、政治に対し、距離をおき、批判する人たちと、逆に、政権に近寄る人々と両方いる。例えば忌野清志郎、沢田研二、坂本龍一などは前者であり、谷村新司 、アグネス・チャン、今回の松任谷由実は後者である。
一方、政治家は文化を求め、文化人の友人を持ちたがる。精神が業界化しないためには異分野の友達も必要だ。しかしそれにとどまらず、人気者を友人にすることが自分の人気につながることを政治家はよくわかっている。それが首相ともなると、「桜を見る会」や叙勲における官邸推薦枠などに反映される。桜の会には、安倍首相の友達が800人も招かれた。
松任谷由実は1954年1月生まれ、私も同じ年に生まれたが、学年は彼女のほうが1つ上だ。安倍首相も同じ年の9月生まれだ。旧姓である荒井由実の曲を最初に聞いたのは1973年頃、友人の横浜市大の1年生の3畳間だった。当時はCDはなく、カセットテープ。「これ今度デビューした多摩美の子だってさ」。私はその時、横浜市大のオケにソリストとして招かれてバッハの「コーヒーカンタータ」を歌いに行っていた。
デビュー当時からラッキーにも彼女はブレイクし、恨みつらみの湿った日本の演歌とは違う、明るい高度成長の「中央フリーウェイ」を 突っ走った。正直行って歌は上手いと思わなかった。でも、その度胸のいい不思議な音階の飛び方が妙に新鮮だった。
きつい眼差し、はっきりしたアイライン、抜群のスタイル、ポニーテール、まさにバービー人形のようだった。アメリカ風のウエストを絞ったワンピースや白い帽子がよく似合った。それこそ、当時の日本人が捨てたくても捨てられなかったもの、故郷、土着性、農村の風景や洟(はな)を垂らした子供たち、親の決めた結婚などと無縁の自由な都会に、彼女は初めからすっくと立っていた。
横浜のホテルニューグランド、丘の上のカフェドルフィン……同じ横浜にいても、3畳の学生下宿の貧乏くささとはあまりにも違う世界。「八王子の呉服屋の娘らしい」と友人はよく知っていた。10代から六本木のキャンティ に出入りし、慶応ボーイの松任谷正隆と恋愛し、横浜山手教会で結婚式を挙げた。雑誌アンアンやポパイは当時そういう世界を演出して見せた。マガジンハウスの編集者だった知人は鎌倉に住んでいて、朝はヨットに乗り、海で泳いでから、昼近く横須賀線で会社に向かったという。
『少しだけ片想い』『ルージュの伝言』など の明るいハイテンポの曲はノリがよかった。パイプオルガン鳴り響く『翳りゆく部屋』は 叙事詩のようだった。小雨降る『ベルベット・イースター』は 繊細で、『ひこうき雲 』『あの日にかえりたい』『「いちご白書」をもう一度』など は決してかえらない青春を愛惜する。
そう、彼女の歌は、誰もが持っている小さな喪失、元彼の表情や、仕草などを思い出させる。しかし、生活を共にし、お互いの醜いところまで見て、子供を育てる上での軋轢、家事の分担といった泥臭いところには一切、関係しない。「少しだけ片想い」だったり「一時的に同棲」したりするが、徹底的には向き合ったことのない男女。だから傷も残さず、懐かしく思い出せる。まあ、ポップスとはそういうものだろう。
曲や、夫君となった松任谷正隆のアレンジ、バンドはすばらしい。だが、音程と声質なら、同時代の『みずいろの雨』の八神純子、『たそがれマイ・ラブ』の大橋純子のほうがずっと上だと思う。なのになぜか独走し続けているのは松任谷由実だ。
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高度成長末期の日本に、ユーミンの提供するおしゃれな都市の恋愛は、そしてその喪失は、魅力的だった。それは、お見合いより恋愛結婚のほうが素敵で、自慢できるものになった時代だった。一方、4大の女子学生にはまだ、就職口などまるでない頃。美大生が二十歳前に歌手でメジャーデビューは、憧れのロールモデルだった。歌に登場する女性たちがなんで食べているのかはずっと謎だけど。芸能プロダクションに属さずに自由に作詞作曲をして、自由に稼ぐ。森山良子がフォーク歌手のはしりなら、ユーミンはシンガーソングライターのはしりで、プロダクションに中抜きされず、毎年、億と稼いで東京都の長者番付 の常連で新聞に載った。
高度成長は終わり、スミソニアン体制も1973年には終わった。円高になった76年頃に卒業した4年制大学の女子学生の就職は、悲惨だった。しかし10年ののち、再びバブル経済が始まった1986年から92年頃まで、ユーミンの歌が再びカラオケなどではよく歌われた。
ライブもゴージャス。暗い公民館でなく、苗場スキー場のリゾートホテルや逗子マリーナのプールサイドで、お金をかけたショーを展開、本人も舞台で縦横に跳ねまわり、時には宙に浮いた。ライブに行ったファンはさぞかし満足しただろう。
一方、ユーミンへの私の関心はだんだん薄れた。バブル期を小さな雑誌の編集で地域を走り回っていた私には、子育て中はライブに行くことはおろか、CDラジカセを買うお金もなかった。やっと2万円ほどお金を貯めて買うと、友人が中島みゆきのCDを何枚もくれた。「だけどな、朝から聞くなよ。気分が暗くなるからな」と彼は言った。1枚だけ、ユーミンがまじっていた。お金もなく、先の見えない私は中島みゆきとシンクロするのが怖くて、そのたった1枚のユーミンのノーテンキに聞こえる歌をよく聞いた。
「中央フリーウェイ」
1976年、荒井由実の名前で発表したアルバム「14番目の月」の収録曲に『中央フリーウェイ』がある。
キャンティ
1960年に港区飯倉片町(当時)にオープンしたイタリアンレストラン。著名人が集まることで知られている。
『少しだけ片想い』『ルージュの伝言』
『少しだけ片想い』、『ルージュの伝言』ともに、1975年荒井由実の名前で発表したアルバム「COBALT HOUR」の収録曲。
『翳りゆく部屋』
1976年荒井由実としてシングル・リリース。
『ベルベット・イースター』
1973年荒井由実の名前で発表したアルバム「ひこうき雲」の収録曲。
『ひこうき雲 』
1973年荒井由実の名前で発表したアルバム「ひこうき雲」の収録曲。
『あの日にかえりたい』
1975年荒井由実としてシングル・リリース。
『「いちご白書」をもう一度』
1975年に「バンバン」がリリース。作詞・作曲/荒井由実
長者番付
金持ちの順位を示す番付。特に、税務署が公表した高額納税者の名簿をいう。高額納税者の公表は、個人情報の保護や名簿を利用した犯罪の防止などの理由により、2006年に廃止された。
『春よ、来い』
1994年、シングル・リリース。同年発表したアルバム「THE DANCING SUN」収録曲。
『美しい国へ』
安倍晋三著、2006年、文春新書。
『真夏の夜の夢』
1993年、発表したアルバム「U-miz」の収録曲。
『輪舞曲(ロンド)』
1995年、発表したアルバム「KATHMANDU」の収録曲。
『ヴィソツキーあるいは、さえぎられた歌』
マリナ・ヴラディ著、1992年、リブロポート。
ヴィソツキー
ヴラジーミル・セミョーノヴィチ・ヴィソツキー(1038-1980)。ソヴィエト連邦の詩人、俳優、シンガーソングライター。
ビクトル・ハラ
1932-1973年。チリのフォルクローレのシンガーソングライター、舞台演出家。
ジョーン・バエズ
1941年生まれ、アメリカのシンガーソングライター。
『勝利を我らに』
原題:We Shall Overcome。アメリカのプロテストソング。
『風に吹かれて』
原題:Blowin' in the Wind ボブ・ディランのセカンドアルバム(1963年)に収録。
『悲惨な戦争』
原題:Cruel War アメリカのフォークソング。ピーター・ポール&マリーが1962年にアルバムに収録した。
ピーター・ポール&マリー
1960年代アメリカの3人組のフォークソンググループ。ベトナム反戦メッセージを歌にしたことで有名。
ピート・シーガー
1919-2014年。アメリカのフォーク歌手。60年代にプロテストソングを歌い、公民権運動をリードした。
『腰まで泥まみれ』
原題:Waist Deep in the Big Muddy ピート・シーガーが1966年にかいた曲。