この点をあえて批判したのは、いわゆる「客観報道」に関わることだからだ。「冤罪もの」の制作にあたっては、「客観報道」つまり、争う相手の主張も正確に伝えることを心掛けなければならない。筆者自身は「客観報道なんて糞くらえ」と過去には言ってきたし、今もそう思っている。世の中にある文章、映像、表現された作品、すべては主観から発している、だから、客観報道、客観的な視点などというものは存在しない、という思いだ。だが、ドキュメンタリーというくくりの中で、その映像によって観る人を説得したいのであれば、どうしても両者の言い分を俎上(そじょう)に並べたうえで、さあどうですか、と問うことになる。
その意味では、弁護人の主張を紹介するだけでは不十分で、検察官の主張を正確に伝える手間を惜しまないことが重要だ。
刑事裁判の主戦場は法廷であり、 そこで検察官と弁護人が言葉を唯一の武器として闘う。検察官の主張は冒頭陳述から論告・求刑に至るまで、また裁判官の判断は判決文、決定文に詳細に書かれている。司法特有の回りくどい文章だが、これこそが彼らの「言葉」である。個人的には、弁護側と検察側の両論が併記された中で、この事件がどのように見えてくるのか、つまりはネット上に溢れる「公平さを無視した言説」以外の何かが見えてくるのか、その期待があったのだが……。
ドキュメンタリーの武器は「映像」と「音声」
『マミー』でも使われた「ノーナレ」は、冤罪を語る手法としては不適切だと筆者は考える。伝えるべき言葉があるのに、それが聴衆に届かないのだ。「字幕スーパー」だけでは荷が重すぎる。また、和歌山毒物カレー事件の確定審から再審請求までの流れを全く知らない人にとっても、それらの情報は必要だったのではないか。映画には「映像」と「音声」の二つの武器がある。この事件が「冤罪である」と観る人に訴えるなら、「音声」という武器をもっと駆使すべきだった。
たとえば毒物鑑定の場面だ。検察側の主張の代弁者として、唯一人、毒物の鑑定をした東京理科大学の教授がインタビューに応じていた。カレーに入れられた亜ヒ酸と林家周辺から見つかった亜ヒ酸が同じものかどうか(事件の核心部分)について、組成的特徴の「パターン」が同じで「同一の起源をもつ」とまでは言えるが「同一物」とは断言できない、と語った。検査結果を過度に評価しない姿勢は、作り手の追及にもかかわらず、抑制的に見えた。
この時、判決の詳細を知らない筆者には一瞬だが、「同一物」とは断言できないはずの鑑定結果を「同一物」であるかのように主張したのは検察官であり、それを鵜呑みにして有罪に突き進んだのが裁判官だった――というこの裁判の構造が、つまり「冤罪の芽」が見えたような気がした。しかし、説明(ナレーション)がないので作り手の意図は想像するしかない。
この想像に乗って話を続ければ、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従うなら、 「無罪」となるべき事件だった、ということも分かってくる。あれやこれや、作り手はもっともっと語るべきではなかったか。
「無罪」か「無実」か?
そんな中で特に聞きたかったのは、作り手の「声明」「陳述」というべき言葉である。監督は『マミー』という映画で、我々をどこに連れて行こうとしているのか、それが見えなかった。冤罪だと思い、だからこの映画を作りたかったのならば、どこで冤罪を確信したのか。記録を読んで、弁護人の話を聞いて、何となく、ではないはずだ。「眞須美さんはやっていない」という実感をどこで得たのか。それは、一人の証言か、一つの証拠か。あるいは、もっと別の何かか。それをきちんと語っていない。
観ている人に冤罪だと訴えていくには、やはり夫と長男の言葉を借りながらではなく、作り手の言葉で語るべきではなかったか。極論すれば、裁判官が死刑判決を書いたように、作り手の書いた「無罪判決」を聞きたかった。
私事だが、テレビ局にいた時代、10本以上の冤罪番組を制作してきた。和歌山毒物カレー事件については、再審の弁護団が動き出した時期が退職の頃と重なり、調べたことはあるが番組化には至らなかった。調べる中でアナザーストーリー(冤罪であるなら、真犯人がいるはずだ)にたどり着かなかったことも、その一因である。
冤罪ものドキュメンタリーの作り手は、事件への向き合い方が弁護人とは全く異なる。弁護人は、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従えば、この裁判は「無罪」になるはずである、と考えている。しかし、裁判官は間違えた。だから再審請求をして、その間違いを正す。極めて当たり前のことである。
一方、筆者はこれまで、「疑わしきは被告人の利益に」を番組内で語ったことはない。テレビを観る人にとって大事なことは「やったのか、やっていないのか」だ。
だからこそ、筆者は必ず、「無実」を確信した時から番組作りに入るようにしてきた。たとえば、静岡一家四人強盗殺人事件(*編集部註:日本弁護士連合会HP「袴田事件」を参照のこと)の犯人とされて長く死刑囚の立場に置かれてきた袴田巖(はかまた・いわお)さんが、獄中から姉の秀子さんに宛てた手紙を読んだことがある。外に向かって開かれた唯一の窓から懸命に無実を訴えている、そういう印象だった。筆者は、その膨大な量の手紙を読み終えた時に、「袴田さんの無実」を確信した。それが、「死刑囚の手紙」というドキュメンタリー番組制作の始まりであった。
「無罪」と「無実」の間にはいつも少しずれがある。弁護人は「無罪」を取るために闘う。ドキュメンタリーの制作者は、「無実」の確信を観ている人に抱かせたい。では、『マミー』の作り手は、どこに立っていたのか。無実の確信を持っていたのか。それとも、無罪となるべき事件だと考えていたのか、それが見えなかった。
無実を信じるからこそ
冤罪ものドキュメンタリー制作者の立ち位置について、別の角度からも述べたい。