この世界に住む人々は「ピョコルン」という高額なペットを飼うことをステータスとする。体はふわふわとした毛で覆われ、短い4本の足で歩き、「甘えるためだけに生まれたような、キュー、キューという人間を擽(くすぐ)る声」で鳴き、児童の情操教育にもよいとされる。動物園の飼育員の説明によれば「「ガイコク」の研究所で、パンダとイルカとウサギとアルパカの遺伝子が偶発的に組み合わさって出来上がった生き物」だという。空子によればピョコルンは「強制的に可愛い生き物」であり、「その姿はいかにも健気で、愛くるしく、この生き物を見て「可愛くない」と口にする人はそれだけで冷酷で残忍な人間だと判断されてしまうだろう、という見えない圧力を感じる」。
また『世界99』の世界では、「ラロロリン人」という「人種」が存在するとされる。ラロロリンDNAを持った人々は、時には理不尽な差別や偏見の対象となり、また時には優れた能力の持ち主として、羨望や賞賛の対象にもなっている。『世界99』の住人たちは、基本的に社会や環境の変化に対して受動的に受け入れる場合が多く、そうしたラロロリン差別的な風潮についても受身的に振る舞い、ラロロリン人に対する評価の変化に順応してくるくると態度を変えていく。人々の生存戦略は、与えられた環境に対する無批判的で非意志的な「適応」であり、そこでは主体的な社会参画や権力への抵抗などは無意味なものとされている。
『世界99』の世界は、空気のように当たり前に暴力や差別が渦巻く世界であるが、そこでは、誰が正しくて誰が間違っているのか、誰が暴力の加害者で被害者なのか、誰が差別者で被差別者なのか、つねに決定不能になっていく。たとえば空子の小学校時代の同級生、白藤遥(しらふじ・はるか)は、つねに「正しく」あろうとし、ゆえに周囲から疎まれている。しつこく付きまとう白藤遥について、空子は、他人を助ける(助けたつもりになる)ことで気持ちよくなるタイプだ、と考えている。彼女は「『正しい』教」の信徒にすぎず、それはマルチ商法と同列だ、と。人間は誰もが自分の加害だけは絶対に自覚しえず、刻々と歴史修正的に記憶を改竄していく。
ラロロリン人に対する「人種」差別と同じように『世界99』の中で際立っているのは、女性差別である。男性たちは、深層学習により自動生成された差別感情を吐き出す人工知能のように、性差別的な人格に染まりやすい。たとえば「匠くん」(白藤遥の兄)は、女性を見下す性差別者であり、ミソジニスト(女性嫌悪者)であり、「お前たち女の賞味期限なんて14歳だ! 女なんて初潮がきたらババアなんだからな!」と主張する。また空子が20歳の時に恋人になった月城明人(つきしろ・あきと)は、空子に対して支配的になり、アルバイトや交友関係を禁じたかと思えば、空子を「そーたんママ」と呼んで甘える。これらは一部の特別な男たちの問題ではない。それもまた「男の典型例」にすぎないのである。逆にいえば、空子の変化する人格は周囲の環境に適応した「典型例」でしかないことと、それはフラットな事態なのだ。
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35歳になった空子は、明人と結婚し、さしあたり、以下の同時並行的な3種類の世界で生きている。
世界①は、地元の友人たちを中心としたコミュニティであり、繋がりの一体感があると同時に、異物に対しては排外的な感情を露わにする。世界②は、職場関係をベースにした繋がりであり、比較的裕福でキラキラした人々の、ポジティヴで幸福な(いわば新自由主義的な)ネットワークである。世界③は、「正しさ」を求める「意識の高い」人々の、いわばリベラル左派的な集団である。そこでは人々は頭がよく、勉強熱心で、自らの罪悪感とつねに戦っている。「世界①と②と③では、日本の歴史も違う」。
空子の世界はこの3つだけではない。世界④も世界⑤もあり、さらにもっと分岐していくだろう。重要なのは、こうした世界の平行世界的な分断が、SNSのタイムラインと重なるように表現されている、という点である。SNSの世界では、人々は、自分が属するコミュニティごとに、まったく違う価値観を生きている。そこには対話や議論が成り立たない。私たちは多かれ少なかれ、そうした形での世界の分断と解離を同時並行的に、日常的に生きている。繰り返すがそれは決して空子だけのリアリティではない。
そんな中、空子は、小早川音(こばやかわ・おと)という女性とソウルメイト的な関係になる。音は、ペルソナを使い分けるのは当然であり、その中のどれか一つが「本物」であるという考え方は取らない、という。空子は自分と同類の違和感を吐露する人間に初めて出会う。空子は音を「自分の分身のような、自分の欠片から発生したクローン」のような存在に感じる。世界①や世界②や世界③に対して「自分の後ろで、それを見張っている自分がいる感覚」のことを、音は「世界(99)」と命名している。「たくさんの世界で生きている無数の自分をその世界の自分がぼーっと見てる感じ」、と。
しかし「世界(99)」というメタ認知的な視点を持ちさえすれば、この世界や社会環境に対する健全な距離を取りうるのか。そうではない。この世界では、他者の道具的利用の階層の中にいる、という事実から誰も逃れられないからである。「私たちは便利な道具の連鎖の中にいる。/母は今日も私や父、親戚、ピョコルンから便利に使われ続けている。母を使っている一人である私は、明人に便利に使われている。明人は(略)将来どこかの会社に使われるための準備をしている」。空子の考えでは、女性たちはセックスによって男性の「道具」となり、結婚によって「便利な家電」になる。
他者を身代わりにして自らの幸福や安楽を求める社会の必然というべきか、人類は次第に、ピョコルンを性欲解消の道具として用いはじめる。「本当はどうなのかわからないが、ピョコルンは挿入行為は苦痛ではなく、人間のような痛みも一切なく、快楽だけがピョコルンを襲うのだという」。これは女性たちの苦痛の身代わりとして、でもある。それだけではない。その後さらに、特に富裕層の人々は、ピョコルンで性欲処理するのみならず、ピョコルンに人工子宮を植え付け、妊娠・出産を肩代わりさせるようになる。結果として、どうやら社会全体の性犯罪の数は減っているらしい――その情報が事実であるとして、だが。