ビジネス成功のために必要な知識を身に着ける「教養」がいま必要だ――。
このような文言を目にしたことはないだろうか? しかし、その「教養」の中身を見ると、短時間でざっくり学べる名著の解説、インフルエンサーによる自己啓発セミナーなど……。はたして、これらから学ぶことが本当に「教養」と言えるのか?
『独学の精神』などの著作で、学問のあるべき姿に着目してきた批評家の前田英樹さんに「教養」についてご寄稿いただいた。
一 土地と教養
「教養」という言葉をめぐって、思いつくままに記してみます。まずこの日本語は、近代のもの、cultureを翻訳して作られたものでしょう。作られる前には、この語が、現在漠然と指しているような内容は、私たちの生活では意識されなかったと言ってよい。学を積み、己を磨く、という考えは、もちろん古くからはっきりとありましたが、それは今日の日本で言うところの「教養」とはかなり違うものです。
cultureと書かれる語は、英語でもフランス語でもそうですが、日本語の「教養」よりもはっきりした意味を持っています。cultureとは、まず耕作のことでしょう。土地を耕して食べ物を得る労働のことです。この土地は、むろん自然の土壌ですから、それ自体で限りない性質の差異を持ち、年ごと、季節ごとに変化し、また循環しています。そこから麦を収穫し、豆を育て、野菜を得るのにふさわしい畑を作り出す。この営みが、cultureです。
cultureの意味は、やがて拡大して、耕作の土壌は人間の内側に、心のなかに移ってきたのでしょう。移っても、この語にあった古い意味との繋がりは、その響きは、消え失せはしないであろう、私はそう思います。「教養」という近代の日本語が指しているのは、言うまでもなく、cultureの拡大された意味のほうだけです。この言葉には、文字通り根がなく、土壌がなく、よってほんとうの収穫物が精神に生(な)るとも考えられない。都会の「インテリ」だけに通じる、まことに心許ない近代の俗語であります。
そのような次第ですから、「教養」という言葉には、何か仲間内でやりとりされる高慢で皮肉な語感が付きまとってしまい、あの人には「教養」があるとか、ないとかと囁やく閉じられた社会が隠然と生まれている。このような場合に考えられている「教養」とは、結局は本で得た何らかの知識、それを知らないでは恥ずかしいとされる漠とした知識以外のものを指していないでしょう。むろん、こういう知識には、生きた自己の土壌から自力で吸い上げられた養分がないので、いかに饒舌に、時流に乗じた言葉で語られようと、貧寒として無意味な内容しかありません。
私は、近代以降のいわゆる人文系の大学教育が、あるいは、その場所で書かれる無数の「論文」なるものが、いかにこのような「教養」の堆積に大きく蝕まれ、いまや瀕死の状態に置かれているかを、身に沁みて知っています。もちろん、これは大学だけの話ではないでしょう。ジャーナリズムでもどこでも、世間で偽の知識が大手を振って歩くところでは、必ず見られる光景です。「教養」とは、土壌を持たぬ根なしの物識りが、いばって何かを言うための道具であるのなら、そういうものはないほうがいい。
二 仁斎が見出したもの
もっとも、誰人(たれびと)かによって誠実に、懸命に生きられたものが、世に流れ出て死物と化す、枯渇した知識の決まりごとと化す、という成り行きは、人間が社会を作り、機構を設けて争い合うところでは、ほとんど避け得ないものでしょう。
たとえば、『論語』という古い書物がある。ここには、孔子と呼ばれる人物が、生きている命の奥底から、弟子たちに向けて直接に語りかけた言葉が見事に記されている。漢文の訓読体に置き換えられた日本文で読めば、今でも溌溂(はつらつ)とした思惟の運動で、私たちの心を打ちます。これが、二千年以上前に語られた言葉であることなど、何の障害にもならず、その教えは伝わってきます。
ところが、この一冊の『論語』をめぐって、後の世に一体どれだけの解釈が生まれ、途方もない観念の体系が作られてきたか、そういうものをことごとく集めて揃えれば、倉がいくつ建つかわかりません。膨張した解釈は、いろいろな学派にわかれ、そのまた下にさまざまな系統ができ、たがいに果てもなく論争し合うということになる。
むろん『論語』は、時代が経つほど古い言葉となって、後の代からは語義の研究を要する語録となるわけですから、それを読むことが、次第にややこしい学問となるのは、いたしかたないとも言える。しかし、なぜそれを読むのか。語釈、注釈を限度もなく押し拡げて、ついに観念の迷宮をこしらえ上げるような業にいたらねばならないのか。その理由が、もはやわからない。
歴史のなか、社会のなかでは、このようにして、わけのわからぬ巨大権威の機構がいくらでも発生し、増殖しては変質して、やがてまた別の機構に取って代わられる、そんな繰り返しがいつもある。私たちの歴史を貫く言語や記号の働きには、まったく底知れず愚かで、恐ろしいものが潜んでいる。
江戸時代にはいって間もなくの頃、京都に伊藤仁斎という儒学者がいました。この人こそは、己ひとりが学んで生きるとはどのようなことかを、一身の行為と文業で表わした史上の傑物だと、私は感じます。およそこの時分の儒学は、朱子学と称する大きな理の体系が権威をなし、徳川幕府の重用を受けて、これ以外を学ぶということは、思いつきもしない状況でした。若き日の仁斎もそうであって、彼はいたって真面目な朱子学の生徒でありました。
ところがこの人は、ある日ふと、これまで自分の学んできたものが、要するに偉そうな空理屈に過ぎぬではないか、と思うのです。思った瞬間に、迷いの眼が醒める。あらゆる注釈、解釈、理の構築、そういうもののすべてが一挙に崩れ去って、清々しい『論語』の孤絶した姿が現われてくる。この姿をじかに観た時の仁斎の喜びが、以後、彼の学問をすみずみまで導き、決定づける。人の歴史には、そういうことが起こり得るのです。