絶え間なく何ものかを養うということ、このことは食物にも思想にも共通してあり、ふたつは深く絡み合い、やはり同じ根を持つものなのでしょう。近代の都市文明は、このことをまったく無視することで巨大に打ち立てられてきました。贅沢で過剰な欲望の生産と消費、これを争うことこそ、近代が持つ本有の性質でありますから。
さて、教養という言葉に戻ってみましょうか。教養とは、語源から言うならば、田畑で食物を養い、それを食べて身を養い、そこからおのずからに育つ心を大切にすることにほかなりません。教養は、インテリたちがこわばった筆で振り回す理屈とは、何の関係もないのです。人の世に教養が高くある時は、人はほんとうの教養が何かという話を少しもしません。世の教養が枯れゆけば枯れゆくほど、人々はいよいよ声高く、教養のあるなしを競い合い、由なき議論を戦わせて、みずから衰弱してゆくのです。
このようなことは、たとえば仁斎の『童子問』に、すでにはっきりと書いてある。そこにある語気、語調には、異論を寄せつけぬ力があり、深さがあり、頷かされるほかない真直ぐな、優しい明晰さがあります。「教養」につき、これ以上、何を言うことができるでしょう。
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