旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦制度とそれに伴う女性の強制連行は、これまでも歴史認識の問題との関連で何度も議論されてきた。その議論は、「確実にあった」「いや、それじたいなかった」と存在そのものを問うもの、そして今回の橋下氏のように「あったことは認めるが、必要であった」「いや、やはりあってはならなかった」と“必要悪”かどうかを問うもの、といくつかのレベルに分けられる。今回の橋下氏の主張は、その存在を認め、あって当然、さらにほかの国もやっていたとし、その上で、現在も性のコントロールするビジネスとして風俗があるので活用を、というものだ。
10年前、いや5年前ならそれだけで辞任に追い込まれる発言だと思うが、マスコミも世論も不快感は示しながらもそこまで厳しく責任を追及する雰囲気ではない。評論家や学者の中にも、「本音を言って何が悪い」と発言を肯定する人さえいる。この「建前よりも本音のほうが常にまさるのか」という問題は非常に重要なので、また回を改めて考えてみたい。また「他の国もやっている」「長い歴史の中には何度もあった」と同罪の他者を指摘すれば自分の咎(とが)は帳消しになるのか、という問題もある。
その前に今回は、橋下氏がツイッターで述べた「法律で認められた風俗業を否定することは、それこそ、自由意思でその業を選んだ女性に対する差別だと思う」という発言について考えてみたい。また有識者の中に、旧日本軍の慰安婦も強制連行などではなく、女性たちは韓国の新聞に載った広告を見て自ら志願したのだ、と語っている人がいたが、これらは「たとえ男性の性欲処理の仕事だとしても、自由意思での選択であれば本人たちの自己責任だ」という考え方であろう。
しかし、この「自由意思」ほど不確かなものはない。診察室にはときどき、風俗業に従事する女性もやって来る。彼女たちの多くは高い収入を求めてその仕事につくのだが、男性からモノのように扱われ、文字通りからだを挺して喜んでいるふりをして働くうちに、不眠、情緒不安定、うつ気分、さらには自殺願望なども出てくる。また、生い立ちをきいてみると、少なからず父親や恋人など身近な男性からの暴力で苦しんだ女性がいることがわかる。子ども時代から「おまえはダメだ」と否定され、自分に自信が持てず、男性を信頼することもできない女性が、「自分なんて粗末に扱われて当然」「信頼できるのはお金だけ」という気持ちとともにこの世界に足を踏み入れる。しかし、お金と引き換えに自分の尊厳と誇りがますます傷ついていくのを知り、傷は深まるばかりなのだ。
そういう彼女たちを見ていると、強制連行でないからといって「自らの自由意思で風俗を選んだ」などとはとても言えない、とつくづく思う。もちろん、中には男性にサービスする仕事にプライドを感じ、「いつまでも続けます」と本名を明かして堂々と語る女性もいるかもしれないが、そういう人はきわめてまれだ。慰安婦も現代の風俗業も、女性は「好きでやってる」「自由に選んだ」と考えることこそ、女性たちへの無理解、侮辱にほかならない。
橋下氏の歯に衣着せぬ発言に「なるほど。現実や本音はそうかも」などと感心することなく、「社会のあるべき姿」を忘れないようにしたいものだ。