言うまでもないことだが、私が知っているNHKの局員たちはこの激しい抗議に「意図的な偏向などしていないし、できるわけもないのに」と困惑している。自分たちは公正、中立を基本に放送を行っている自負があるので、彼らの声にこたえて路線を変更することが逆に“偏向報道”になりかねない、ということかもしれない。市民が大企業に対して声を上げるという行動は重要だと思うが、公害や放射能汚染を生み出した企業に被害者らが抗議に行くのと“NHKデモ”とでは、かなり構図が違うのではないだろうか。
そんな中、籾井勝人・新NHK会長は、就任記者会見で旧日本軍の従軍慰安婦問題について問われ、「日本だけがやっていたようなことを言われる」「戦争をしているどこの国にもあった」と述べ、ドイツやフランスなどの具体的な国名をあげて「ヨーロッパはどこだってあったでしょう」と言った。
さらに記者に質問され、個人的な見解であると断った上で、「韓国が、日本だけが強制連行したみたいなことを言っているから話がややこしい」「(補償問題などは)日韓条約で解決している。なぜ蒸し返されるんですか」などと、さらに日韓の歴史認識、補償問題に関して踏み込んだ発言をした。
その後、発言は適切ではなかったので「全面的に取り消す」としたが、語られた事実は消去できない。菅義偉官房長官は「個人として発言した」と進退問題には発展しないと政権として問題視しないことを明言し、橋下徹大阪市長は「正論。自分と同じ見解」と評価した。安倍晋三総理は衆議院本会議での答弁の形で、「政府としてコメントすべきではない」と述べた上で、NHKに対し「いかなる政治的圧力にも屈することなく、中立、公正な報道を続けてほしい」と語った。真意は定かではないが、この場合の「政治的圧力」が自分たちの政権を指しているわけではないことは明らかだ。もっと言えば、総理自身も現在のNHKは「中立、公正な報道」を行っていないと考えていて、何らかの改善が必要だと暗に要求しているのかもしれない。
NHKに出演する際には、民放以上に強く「不偏不党の原則」が求められる。民放でも放送法や公職選挙法にのっとり、選挙が近づくと立候補が噂される人の出演は見送られるが、NHKは本人が立候補しなくても、特定の候補者の推薦人や支持を表明する人も出演させない。もちろん、出演した番組で「○○さんを推薦します」などと語ることはないはずだが、それでも間接的に候補者を連想させる可能性がある、ということなのだろう。私のような者でも、何度も選挙のたびに担当者から何度も「特定の候補を応援していないか」と確認される。あまりに厳密すぎるとしばしば週刊誌などでも話題になるが、NHKはその原則をかえる予定はないようだ。
このように出演者には厳しく中立、公正あるいは不偏不党の原則が求められるのに、会長自らがたとえ放送内ではないにせよ、公の記者会見の場でここまで踏み込んだ歴史認識を平然と語るというのはどう考えてもおかしな話なのではないだろうか。
次にNHKに収録に行くとき、門の前に集っている人たちはどんな顔をしているか、と想像すると気が重い。「自分たちと同じ主張の持ち主が会長に就任したぞ」と勝ち誇っているのだろうか。それともすでに思いは遂げられた、と抗議行動やデモを中止しており、その場にはいないかもしれない。せめてそうであってほしい、と思うばかりである。