まず目につくのは、子ども時代、18年前の事件前後のことや取り調べなどについて、男性が細かい点までつぶさに覚えていることだ。当時の精神鑑定では、男性は「直感像素質」といって目に焼き付けた映像をそのまま記憶する能力の持ち主であることが記されていた。おそらく男性は当時のことも写真を保存するように記憶しており、それを頭の中で再現しながら手記を書き進めたのだろう。このあまりに鮮明すぎる記憶が、少年時代の彼をあるときには苦しめ、あるときには優越感に浸らせたのではないか。
また、多くの人が指摘しているように、文章からは反省や後悔、贖罪(しょくざい)の気持ちが伝わってこない。文学作品などを多く引用し、むしろ自分の行動を美化あるいは正当化しようとしているようにも読める。
当時の精神鑑定は、少年が「行為障害」と考えられることも明らかにしている。「行為障害」とは、他者への共感や同情、道徳的感情を持つことができない「反社会性パーソナリティー障害」の予備軍の少年に対してつけられる診断名だ。その問題は、何らかの脳の機能不全に由来すると考えられており、教育やカウンセリングだけで完全に根治させるのはむずかしいだろう。これは、家庭環境とかしつけや教育の失敗から起きるのではない。
そうだとすれば、この加害男性も私たちが期待するような意味で反省し、懺悔(ざんげ)の涙を流すことはないと思われる。文学作品からの引用を繰り返したり、どこかで見たような妙に表面的でレトリカルな文体が多いのも、彼にとっては自分を表現する手段としてはこれしか選びようがなく、いわゆる心の底から言葉を絞り出して語るような感情を持ち得てない、ということなのではないか。
それでも後半部分、少年院を出所してからサポートしてくれる人たちや職場の同僚の善意に触れ、自分は取り返しがつかないことをした、と実感して涙に暮れる場面が出てくる。おそらくそれは男性にとって大きな“成長”であり、現時点ではそれ以上のものを求めるのはむずかしい段階なのであろう。男性の独特な思考パターンでは、自分が少年時代に有していた特殊な性的傾向や衝動を告白することこそが、彼なりの反省の証しということなのかもしれない。
しかし当然のことながら、それは彼だけの独善的な理屈であり、それでは遺族はもちろん、世間の人々も到底、納得できない。手記の出版が売名行為だとか金儲けの手段だとか勘繰られるのも当然のことだろう。私は、本書は加害男性が有している(おそらく心理学的にではなく生物学的な問題に由来する)問題をきちんと整理し、解説した文章とともに出版されるべきではなかったか、と思っている。そうすれば何を書いても許される、という問題ではないが、少なくともなぜこんな書き方をしているのか、読者も少しは理解しながら読み、その上で批判することもできたのではないだろうか。その意味で出版社ができたことはもっとあったはずだが、もしかするといかにも自分が医学の症例のように扱われるような解説つきでの出版は、男性側が拒んだのかもしれない。
この読み方は本質的ではないかもしれないが、私はここまでの残虐性や衝動性を持った「行為障害」の少年でも、多くの人が熱心にかかわることで、少しずつではあるが人間的に成長することができるのだ、ということを本書から知った。しかし、そのためには恐ろしいほどの時間と人手がかかる。また、早期に「行為障害」と診断された場合、この男性のように犯罪にかかわらないようにするためにはどうすればよいのか、という問題もある。
事件から18年が経過した後、再び大きな問題が私たちにつきつけられることになった。