いわゆる南京大虐殺に関しては、その実態について諸説があり、被害者の数だけではなくその存在すら「なかった」と主張する人たちもいる。日本と中国との間の大きな政治問題にもなっている。そのようなデリケートなテーマを今回、中国政府が申請したのは、単にその資料を保存し人類に平和の大切さを訴えたいからだけではなくて、日本に対する牽制(けんせい)だとか中国国内の人気取りだとか、さまざまな憶測が飛ぶのも当然かもしれない。
しかし、それに対する日本政府や与党自由民主党の反応は、やや“おとなげない”ものであった。まず、ユネスコによる登録が発表された直後の10月13日、菅義偉官房長官が記者会見で、日本がユネスコに拠出する分担金の停止・削減を「検討する」と発言。その翌日の14日には、自民党外交部会などが政府に分担金廃止の提案を求める決議を可決したのだ。
中国政府がユネスコに申請を行ったのが判明してから、日本政府はそれを取り下げるよう要請していたという。また、ユネスコがどういう審議で認可し登録したのかは明らかにされていない。それに対して、政府が「記憶遺産として登録されたことは、中立・公平であるべき国際機関として問題であり、極めて遺憾だ」と見解を述べたことじたいは、さほど不自然ではない。
しかし、だからといって、即座に「分担金を払いませんよ」と表明する必要があったのだろうか。ユネスコ予算における2014年度の日本の分担金は約37億円で、これは率にして全体の約11%。決して小さな数字ではない。ただ、本当に分担金を出さないと告げたら、ユネスコは「それは困ります。『南京大虐殺』の登録は取り消しますからなんとかこれまで通りにお願いします」と言うのだろうか。それは考えにくいだろう。だとしたら、単なるメンツのために、「これを登録するようなところにもうカネは出せない」ということか。
もしそんなことをしたら、世界の国々や人々からはどう見えるか。ユネスコは世界の教育や文化に大きな貢献をしており、非常に信頼性の高い機関だ。そこに対して「分担金を停止する」と生々しい話をいきなり突きつけるのは、いかにも文化度の低い話。まったくユネスコの性格とはあわない抗議の仕方が、「まずカネの話か」と世界からは異様に見えるのではないだろうか。
日本国内では、この官房長官や自民党の態度に「よく言った」「がんばれ」という支持する声も多いようだが、それこそ「南京大虐殺を申請したのは中国国内での人気取りのため」というのと変わらないのではないか。
何でも国益のために、国際社会の協調のために、と言いたいことも言えないのでは困る、という主張もあるだろう。しかし、日本が成熟した国として世界に認められるためにも、「おとなの振る舞いとは何か」を考える時期に来ているのだ。視野を広くして、「どう振る舞うのがおとなの態度か」と熟考することを望みたい。