衆議院選挙が終わり、「自民党大勝、新党の立憲民主党躍進」という結果が出た。
今回の選挙は、「関心が高い」という人と「関心がない」という人との差が激しかったのではないだろうか。突如として誕生した立憲民主党の枝野幸男代表の街頭演説には多くの人が集まり、同党の公式ツイッターアカウントのフォロワー数も開設から十 数日で18万人を突破するなど、関心の高さがうかがえたが、ふたを開けてみると投票率は53.68%と戦後2番目の低さであった。とくに18歳と19歳を合わせた十代の投票率は41.51%で、全体よりなんと12ポイントも低い。
個人的な印象だが、私の知人でもいったんこの選挙に関心を持った人は、顔を合わせるたびに「希望の党が言う『排除』ってなに? どうなるの?」「立憲民主党の勢いはすごい! あの選挙区では自民党の候補と横一線まで並んだんだって」と選挙の話ばかりしていた。ところが、最初の段階で「希望の党が出てきて民進党議員も希望の党に移るとか移らないとか……もうわからなくなっちゃった」と言っていた人は、そのあとピタリと選挙の話はやめてしまった。「どうして関心がなくなったのか」と聞くと、「目まぐるしすぎてついて行けない」「結局は自民党が勝つから同じこと」と答えた。
大学の学生を見ていても、この関心の二極化ははっきりしている。「新党がいろいろ誕生したから、それぞれの政策の違いをまとめてみよう」と自主的にグラフィック化し始める学生たちがいる一方で、「わからない」を繰り返す学生たちもいた。後者の「わからない」と言う学生たちが、選挙に行かなかったとしても不思議ではない。
また、後者の学生から、強い関心を持っていろいろ調べる学生たちに対し、「あの人たちはマジメだから」とか「政治的すぎるのは危ないんじゃない?」とか、やや否定的な視線が向けられることがあったのも気になった。
似たような話をある企業に勤める人からも聞いた。そこでは選挙の話題を口にするだけで、「私は関心ないんで」とシャットアウトされることもあるのだという。「別に誰に投票してくれ、といった話をするつもりはなかったのに。特定の思想信条を持った人間だけが選挙や政治の話をすると思われている」とその人は表情を曇らせた。
古代ギリシアではポリス(都市国家)の構成員が「市民」と呼ばれ、その市民たちの議論によって主体的に政治が運営された。それが民主主義の始まり、というのは中学校の教科書にも載っていて、市民はポリス中心部の丘・アクロポリス周辺のアゴラと呼ばれる広場に集まり、ああでもないこうでもないと、とにかく話し合いをしたと言われる。
もちろん、この古代ギリシアの市民には女性や奴隷は含まれておらず、成人男性の一部だけが「市民」として政治に参加できたわけだから、18歳以上のすべての日本人に参政権があるいまの日本のほうがよほど民主的だと言うこともできる。ただ、日本で選挙の話をするだけで「えー、キミは政治的だね」と言われるとき、「政治的」という言葉がおおむね「偏っている」とか「変わっている」といったネガティブな意味で使われてしまっているという点においては、古代ギリシアよりも遅れていると言わざるをえないかもしれない。
今回の選挙では、評論家の常見陽平氏や元アナウンサーの小島慶子氏など、これまで選挙活動にかかわってこなかった著名人が街頭の応援演説でマイクを握る姿も見られた。このように「自分たちのことは自分たちで決めよう」という動きが高まってきている一方で、「政治については口をつぐむのが賢いこと、中立なこと」という空気も醸成されてきているのは深刻な問題だ。
せっかく新党が誕生して野党第一党になるなど、政治がおもしろみを帯びてきているいまなのだから、スポーツや芸能の話題を語るようにもっとカジュアルに政治や選挙について話し合い、意見を交わし合うことがあたりまえになってほしいと思う。そのためには、とくに高校や大学の授業で政治や選挙の話をするだけで「偏向授業だ」とネットなどで問題になる、という現状をなんとかしてほしい。「古代ギリシアに戻れ」とは言わないが、「古代ギリシアに学べ」くらいは言ってもよいのではないだろうか。
古代ギリシアから日本が学ぶべき点とはなにか?
(医師)
2017/10/27