皆さん、「企業統治指針(コーポレートガバナンス・コード)」というものについてご存じでしょうか。企業統治のあり方に関する基本的な枠組みを示したものです。日本では金融庁と東京証券取引所が主導して、2015年に打ち出しました。そのため、15年は「日本のコーポレートガバナンス元年」などと呼ばれています。
企業統治に関するルールが確立されるというのは、結構なことです。企業がきちんとその社会的責任を意識し、世のため人のために役立つべく、折り目正しく行動する。そのためには、どんなことを意識し、どんな立ち居振る舞いをすべきであるのか。これらのことについて枠組みが示されることは歓迎されるべきでしょう。
ところが、15年に提示された日本の企業統治指針には、どうも、首を傾(かし)げざるを得ないものがありました。なぜなら、その中には「攻めのガバナンス」という考え方が色濃くにじみ出ているからです。この考え方によれば、法令遵守や倫理性確保などは、企業にとって「守りのガバナンス」です。企業が批判や制裁から我が身を守るための防護服。それが「守りのガバナンス」だというわけです。
これに対して、15年の企業統治指針が提唱した「攻めのガバナンス」は、端的に言えば収益確保のための企業統治です。企業の収益力アップに焦点を当てて、企業統治のあり方を再考せよ。それが「攻めのガバナンス」の考え方なのです。
これは実に奇異な考え方です。そもそも、企業統治というテーマがクローズアップされるようになったのは、企業があまりにも攻めの姿勢に徹し過ぎて、その社会的責任を忘れ去り、倫理を無視した行動に出るようになったからです。グローバル競争が激しさを増す中で、そのような過激な企業経営が目立つようになったため、企業統治の引き締めが叫ばれるようになったのです。それなのに、収益力強化に資するガバナンスを追求するとは何事か。全くの定義矛盾ではないか。筆者はそのように思います。
このような具合で、この間、筆者は日本の企業統治指針について一貫して腹を立て続けてきたのです。ところが、この5月初旬、そんな筆者の目を引くニュースが報じられました。日本の企業統治指針が改訂されるというニュースです。指針の中に、人権尊重を求める規定が盛り込まれることになったというのです。6月から導入予定だそうです。誠に結構なことです。結構というよりは、当然のことだというべきでしょう。
金融庁も東証も、ようやく「攻めのガバナンス」の問題性に気づいたのか。その反省の下に、人権尊重という最も本質的な倫理性を企業統治の軸に据える方向感を打ち出したのか。そうだとすれば、誠に喜ばしい。そう思いました。ところが、この報道を読み進んで行くと、たちどころに、不信感が湧いてきました。人権尊重の取り込み動機が、何とも不純に思えてきたからです。
欧米の投資家は、投資対象企業の人権意識への関心が強い。ウイグル族に対する中国の人権侵害問題などが、関心の一段の高まりをもたらしている。製造業が、児童労働や搾取的労働に依存してコストダウンや効率アップを図っていないか。それらのことに欧米投資家の目が注がれる。こうした中で、日本企業の人権意識の低さが目立てば、意識高い系の投資家たちに見放される。人権侵害に関する感性が鈍くて、不買運動を起こされるような日本企業は、国際社会に背を向けられてしまうかもしれない。それはまずい。こうした論法に基づいて、コーポレートガバナンス・コードに人権尊重の必要性を明記することにしたらしいのです。
つまりは、世間の目が気になるから、人権尊重を打ち出しておこうというわけです。これは、あまりにも低次元です。人権は、いついかなる場合においても、不可侵です。本来であれば、わざわざコーポレートガバナンス・コードに明記するまでもないことであるはずです。
魂ある企業なら、誰かに言われるまでもなく、ルールの有無を問わず、基本的人権の尊重をいの一番の経営指針としているはずだ。体裁を整えるための人権尊重に魂はありません。