PSRという頭文字用語を思いついてしまいました。PCRではありません。PCRはpolymerase chain reactionの頭文字で、PCR検査は新型コロナウイルスとの人類の闘いの中で極めて重要な位置を占めています。PSRはこれとは全く別物です。PSRのPはpolitical、Sはsocial、Rはresponsibilityです。というわけで、PSRは「政治の社会的責任」です。
企業の社会的責任、すなわちCSR(Corporate Social Responsibility)については、皆さん良くご存じの通りです。企業もまた社会の一員。そうである限り、企業といえども、ひたすら儲けることばかり考えて、その社会的責任を無視していてはいけない。世のため、人のためにお役に立つよう、心掛けなければならない。もちろん、法令順守を怠ったり、収益確保やコスト削減のために不正行為に及んだり、粉飾決算などに及ぶのはもってのほかだ。環境にも配慮し、地元の地域社会のためにも貢献しなければならない。これがCSRの基本的考え方です。
企業にCSRを意識した経営を求める。この考え方は、いまや、世の中にすっかり定着した考え方だといえるでしょう。近頃では、SCSRという言葉が盛んに使われるようになりました。
SCSRのSはstrategic、つまり「戦略的」です。企業はCSRについても、戦略的に考えなければいけないという発想です。世間の目がある。世の中のプレッシャーがある。様々な方面からうるさく言われるから、社会的責任に対応する。このように、CSRを外圧的に捉えてイヤイヤながら取り組むのではだめだ。この考え方はもう古い。CSRを経営戦略に巧みに取り込んで、競争優位性の向上やイノベーション、そして収益力の強化につなげていくべし。これがSCSRの発想です。
正直なところ、筆者にはこの考え方はどうも邪道のように思えてなりません。社会的責任の履行を経営戦略上のツールにするというのが、どうもよこしまに思えてしまうのです。たとえ、収益向上の妨げになっても、倫理観なき経営はしない。世のため人のためにならないことはしない。それが正論ではないかと思えるのです。これは、この分野の素人である筆者の知識不足、認識不足がもたらす誤解かもしれません。ですから、無視して頂いても結構ですが、ひとまず、意識共有させて頂きました。
さて、CSR話が長くなり過ぎました。冒頭のPSRに戻りましょう。企業にも社会的責任が求められるなら、政治にこそ、その社会的責任を果たしてもらわなければいけません。企業については、「企業といえども社会的責任の履行義務がある」という言い方がそれなりに成り立ちます。確かに企業は収益確保が本務だが、だからといって、社会的責任を無視してはいけない。このように言うことに、一定の正当性があります。
ですが、政治については、こうはいきません。政治といえども社会的責任あり、などという言い方はナンセンスの極みです。政治が政治である以上、社会的責任の履行こそが、その本務です。世のため人のために役に立つ。地域社会の発展に貢献する。環境保全に尽力する。倫理観に満ちた立ち居振る舞いを貫く。これらのことは、全て、政治にとって必ず履行しなければならない責務です。
さらに言えば、政治にとって最も重要で、最も履行すべき社会的責任が基本的人権の守護者であることです。格差と貧困、差別や虐待によって基本的人権を脅かされている人々の救出に繰り出すこと、すなわち弱者救済こそが、政治にとっての本務中の本務です。
弱者救済とは、すなわち公助です。つまり、政治がそのPSRを果たすということは、公助に全身全霊を傾けることにほかならないのです。すっかりアホノミクスの大将から我が宿敵役を引き継いだスカノミクス親爺のように、まず自助で次が共助で、最後に公助だなどというのは、政治家が持つべき認識から、あまりにもかけ離れ過ぎています。とんでもない女性蔑視発言に及んだ森喜朗元首相の社会的責任破りにいたっては、言語道断という糾弾の仕方さえ、手ぬる過ぎる行状です。我々は声高にPSRを要求していかなければいけません。