田中正造が、足尾銅山の問題を国会で訴えた話を思い出してください。その時の農商務大臣が、陸奥宗光という有名政治家でした。陸奥は大臣として答える義務があったにもかかわらず、田中正造のことばをきちんと聞こうとしませんでした。さて、ここからが信じられないような話なのですが、その陸奥宗光の次男が、養子として古河市兵衛の家に入っていました。つまり親戚関係だったのです! 古河の有利な方向に物事が進むように陸奥が配慮するのは、当然ですよね。ちなみに陸奥宗光と古河市兵衛をつないだのは、陸奥のかつての上司だった渋沢栄一です。渋沢は、「日本資本主義の父」と称される経済界の大物で、莫大な数の銀行や会社の設立にかかわった人です。古河が足尾銅山を買収する際には、共同経営者に名を連ねていました。新デザインの一万円札に肖像が描かれているので、どんな人か確認してみてください。さらに1905(明治38)年、その養子が社長になるタイミングで、後に総理大臣になる原敬が副社長に就任しました。このように足尾銅山は、政界と経済界の両面から、がっちり守られていたのです。
当時、政治家との結びつきを利用しながら様々な事業に手を伸ばし、会社の規模を拡大していたのは、古河や渋沢だけではありませんでした。彼らは「財閥」と呼ばれる集団を形成し、朝鮮半島にも進出しました。現地に支店を作って商売したのです。渋沢や三菱や大倉といった「財閥」は韓国に広大な土地を所有していました。つまり、戦争によるアジア侵出が、彼らの金もうけの後押しになっていたのです。※2
たしかに明治時代の日本は、新しい技術を取り入れ、軍事力を高め、びっくりするようなスピードで、欧米と肩を並べる近代国家になりました。ですが、その内実は誇れるものではありませんでした。国の進路を決めていたのは、お金によってつながったごく少数の人々でした。
銅山事業で環境を破壊しておきながら、被害を受けた人々の声を真面目に聞こうとしなかったこと。他国の人々の人生を、植民地化によって踏みにじったこと。これらの問題の根っこに、国家や会社といった集団の利益のためなら〝個人〟は犠牲になってもしかたないという姿勢が、あったのではないでしょうか。内村さんが批判したのは、そのような国のあり方でした。こんな状態では、科学は悪用されるばかりで、日本人の生き方に良い影響を与えないだろう。内村さんはそう考えて、科学と道徳観がともに進歩するイメージを、捨てたのだと思います。※3
1911(明治44)年、内村さんはある集まりの中で、北欧のデンマークという国について語りました。
デンマークはもともと小さな国だったが、戦争に敗れて領地を奪われ、残ったのは荒れた土地ばかりだった。しかし、ねばり強く土地を整備し、木を植えた。自然環境が回復したことで、酪農や漁業、林業などが盛んになり、今ではとても豊かな国になった……。このような内容です。内村さんの脳裡には〝日本も、無理に工業国を目指さなくても、外国の領土を欲しがらなくても、自然と調和した豊かさを、おだやかに追い求めることができたはずなのに〟という後悔があったにちがいありません。また、そこには、国を奪われた朝鮮半島の人々を思いやる気持も込められていたのではないでしょうか。この講演の前年に、日本は韓国を併合していました。
講演は、その後『デンマルク国の話 信仰と樹木とを以て国を救ひし話』というタイトルで出版されました。この本の影響で、植樹活動を行った人もいたそうです。※4
社会を変えるには、まず自分が変わること
田中正造も内村さんと同じで、日本の近代化を批判し、戦争に反対しました。それで二人は意気投合したのですが、かかわりは徐々に薄くなりました。ケンカ別れしたわけではありませんが、考え方に少し違いがありました。
内村さんはよくこんなふうに言っていました。〝他人の悪いところを指摘する前に、まず自分自身を変えなければならない。自分には厳しくして、他人の欠点は寛大にゆるす。そうしなければ、社会は良い方向に向かっていかないよ〟って。※5 古河市兵衛を憎むのではなく愛さなければならない、とも語っています。※6 そして、そのためには『聖書』を読むことがなによりも大切だと説きました。田中正造はそんな内村さんに、『聖書』のことは一旦横に置いて、反対運動を盛り上げることが今は大事だと忠告しました。それにたいして、内村さんはつぎのように答えたのです。わたしなりにかみ砕いて書きますね。
〝渡良瀬川沿岸の地域に『聖書』が行き渡った時が、鉱毒問題が解決される時であるということを、わたしは信じて疑わない〟※7
別の文章では、こんなふうに語っています。
〝鉱山から流れて来る毒が、人々を苦しめている。でもじつは、鉱毒の奥にもっとひどい毒がある。それは、山から出る毒ではなく、人の心から湧き出る毒だ〟※8
もしも自分が渡良瀬川流域の住民だったとしたら、このことばを聞いてどんなふうに感じるか、想像してみてください。
被害を受けた人々にとっては、こんな考え方では遠回りな気がして、受け入れにくかったのではないでしょうか。相手の問題点をきちんと指摘し、あらためさせることが、解決への近道だと考えるのがふつうですよね。内村さんのような態度は、集団で主張を訴える政治運動にはあまり向いていません。日露戦争がはじまると、世の中から注目される活動は行わず、『聖書』の研究に没頭しました。〝人の良心を直接改良するのでなければ、社会の罪悪を拭い去ることはできない〟※9 この自分のことばを丁寧にかみしめる日々を、過ごしたのです。
※1
吉川賢『森林に何が起きているのか』中公新書 164頁
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※2
石井寛治『日本の産業革命』講談社学術文庫を参考にしました。
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※3
大庭健『民を殺す国・日本』筑摩選書 では、2011年に発生した福島第一原子力発電所事故も、このような流れの中に位置付けて説明されています。
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※4
現在も手に入りやすい文庫本があります。興味があれば読んでみてください。(『後世への最大遺物・デンマルク国の話』岩波文庫)
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※5
「理想団は何である乎」「社会改良の最良策」「余の従事しつゝある社会改良事業」(いずれも『内村鑑三全集』9巻、岩波書店)に書かれている内容を、わたしなりにまとめました。
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※6
「内村氏の鉱毒問題解決」(『内村鑑三全集』10巻、岩波書店)469頁
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※7
「聖書を棄てよと云ふ忠告に対して」(『内村鑑三全集』10巻、岩波書店)97頁
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※8
「聖書の研究と社会改良」(『内村鑑三全集』10巻、岩波書店)107頁の内容を、わたしなりにかみ砕きました。
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※9
同前105頁のことばを、現代のことばづかいに改めました。
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※10
「近代に於ける科学的思想の変遷」(『内村鑑三全集』17巻、岩波書店)90頁のことばを、わたしなりにかみ砕ききました。
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※11
「羅馬書講演約説」(『内村鑑三全集』27巻、岩波書店)41頁のことばを、わたしなりにかみ砕きました。
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