渡良瀬遊水地から足尾銅山への旅
みなさん、こんにちは。新しい年になりましたね。ところで昨年(2024年)の10月、わたしは一人でちょっとした旅行をしました。ふと、内村さんにゆかりのある土地を訪ねてみようと思い立ったのです。
はじめに行ったのが、渡良瀬遊水地でした。
遊水地というのは、洪水の時に水を貯める目的で河川のそばに設置される、広い土地のことです。雨で増量した渡良瀬川の水を一旦そこに誘導することで、下流部の洪水被害を軽減するのですね。渡良瀬遊水地の面積は約33平方キロメートル。羽田空港の2倍以上の広さだそうです。関東平野のほぼ中央に位置し、茨城、栃木、群馬、埼玉の四県にまたがる、巨大な遊水地です。谷中湖というコンクリート張りの人工の湖があるほかは、本州最大級のヨシ原の湿地が見渡すかぎり広がっている、自然の豊かな場所でした。バードウォッチングの名所として知られており、珍しい昆虫や魚類、植物もたくさん見つかっています。
そのため2012年には「ラムサール条約」に登録されました。「ラムサール条約」の正式名称は、「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」です。湿地は生物多様性が高く、〝地球の腎臓〟とも呼ばれます。自然環境の維持に欠かせない貴重な湿地を守ろう。渡良瀬遊水地は、そうした国際的な約束の中に位置づけられているのです。わたしが訪れた時には、双眼鏡を手に持って野鳥を探している人が何人もいましたし、谷中湖の周りをサイクリングする人や、ベンチでのんびり読書をする人もいました。この遊水地が、自然と人間の共生の場として大事にされていることが、伝わってきました。
次の目的地は、栃木県日光市の足尾地区。車で2時間ほどかけて、渡良瀬川に沿う山道を北上しました。
渡良瀬川の上流にあるその地域は、静かで、こぢんまりした印象でした。かつては単独の自治体でしたが、2006年に他の市町と合併し、日光市の一部になりました。1973年に銅山が閉山し、住む人が減ったことが、理由の一つだと思います。足尾銅山鉱毒事件で有名な、あの足尾銅山です。みなさんも、歴史の授業などで、聞いたことがあると思います。日光市のホームページによると、現在の足尾地区の人口は1291人。銅山事業が盛んだった1916(大正5)年の足尾町の総人口は、なんと3万8428人だそうです。田舎で過疎化が進んでいるのは、日本全国どこも同じですが、それにしてもたいへんな落差ですね。
足尾地区には、足尾銅山にかかわる施設が、「産業遺産」として残されていました。もちろん内部には入れませんが、鉱石から銅を取り出す作業をしていた製錬所や、硫酸を生産していたタンクなどを、渡良瀬川の対岸からながめることができました。どれも、表面がぼろぼろに錆びて、赤茶けていました。そこから視界を右にスライドすると、夕焼け空に、巨大な黒い煙突が、ものすごい迫力でそびえていました。1919年に建てられたこの煙突は、高さが約50メートル、直径が6メートルもあるそうです。製錬所から北に進むと、はげ山が連なる場所があります。昔、製錬所から排出されていた有害物質を含む煙を受けたために、山に樹木が育ちにくくなったと考えられています。
人の気配がない、廃墟のような風景の中に一人でたたずんでいると、時間が止まった世界に迷い込んだ気分で、少し怖かったです。
さて、この足尾銅山と渡良瀬遊水地に、どんなつながりがあるのでしょうか。そして、内村さんがどう関係しているのでしょうか。田中正造という人物が、鍵を握っています。順番に確認していきますね。
※1
田中正造は用意していた訴状を明治天皇に手渡す前に、警官に取り押さえられました。しかし新聞の号外によって、田中の行動と、直訴状の内容は、すぐに知れ渡りました。田中は死刑を覚悟していましたが、釈放されました。ちなみに、『万朝報』で内村さんの同僚だった幸徳秋水が、直訴状を書くのを手伝ったそうです。
※2
この出来事をきっかけに、谷中村から北海道に移住し、土地を開拓した人々もいました。北海道の佐呂間町に、〝栃木〟という地区があるのは、彼らが、自分たちの出身県の名前を付けたためです。
※3
『田中正造文集(二)谷中の思想』 小松裕「解説」、岩波文庫 396頁
※4
渡良瀬遊水地内には、ごくわずかですが、谷中村の史跡が保存されています。機会があれば、訪ねてみてください。
※5
「石狩川鮭魚減少ノ源因」(『内村鑑三全集』1巻、岩波書店)72頁