本稿の写真は、写真家の金川晋吾氏が本文テーマをイメージして選定しています
セカイの終わり
みなさん、こんにちは。今回は、世界の話からはじめます。といっても、〝グローバル〟という意味の世界ではありません。まずは身近な環境を思いうかべてください。
通っている学校、家族と暮らしている家、職場、住んでいる地域や国。こうした様々な場所での出来事や人間関係が重なり合って、その人にとっての世界が形作られます。このような具体的な物事であれば、自分の意思で、組み替えたり、作り変えたり、脱け出したり、できるはずです。運に左右されたり、すべて思いどおりにはいかないとしても、世界にはある程度の自由があります。
しかし、です。ここから話がちょっとややこしくなります。
みなさんは、〝こんな世界に、生まれてこなければよかった〟と思ったことはありませんか? そのような感情にとらわれる時、たぶんわたしたちは、今言った意味の世界とは異なる、もう一つの世界からの影響も、受けています。
日々の生活に漂う、どんよりした気配。見えない巨大な壁に取り囲まれ、押しつぶされそうな息苦しさ。摑みどころがなくてうまく言えないけれど、心やからだに浸透し、圧迫してくる何か。どうしても抽象的な説明になってしまいますが、これもまた、わたしたちが生きている世界なのだと思います。なんとなく伝わるでしょうか? 身近で具体的な世界と区別するために、こちらはカタカナで、セカイと表記することにしましょう。
セカイは、個人的なものなのか、それとも集団的なものなのか。精神的なものなのか、それとも実在的なものなのか。世界とセカイは、どんなふうにつながり、重なり合っているのか……。とても難しいです。たんなる個人の気分の問題だとは思えませんし、〝世の中の空気〟という表現では、軽すぎる気がします。いずれにしても、このセカイを自由に作り変えたり、脱け出したりすることは、簡単ではなさそうですよね。
漫画やアニメ、音楽などの、いわゆるポピュラーカルチャーは、しばしば、セカイのあり方を、作品に取り入れます。それらの表現をつなぎ合わせると、わたしたちが〝終末〟を意識していることが見えてきます。〝終末〟をわかりやすく言い換えると、〝世界の終わり〟です。歌手のあいみょんに「あした世界が終わるとしても」というタイトルの楽曲がありますし、SEKAI NO OWARIというバンドもいますよね。『終末のワルキューレ』という漫画、アニメ作品も人気です。※1
前回お話ししたように、いずれ人類は絶滅し、地球は消滅します。とはいえ、それは何百万年か何千万年か先の、遠い未来のはずです。とりあえず自分が生きているかぎり、自分にとっての世界がいきなり終わらないことは、はっきりしています。なのに、大勢の人が、〝終末〟を意識し、時にはエンターテインメントとして楽しんでいるのです。考えてみると、なんだか不思議です。
ただし、これはつい最近はじまった現象ではありません。日本では、今から50年以上も前の1973年に、『ノストラダムスの大予言』という本が出版されて大ヒットしました。※2 16世紀のフランスの医師で占星術師のノストラダムスという人が、1999年に人類が滅亡すると予言していた! というセンセーショナルな内容が、話題をさらったのです。1999年というと、ちょうどわたしの小学生時代と重なっていました。当時、よくテレビで面白おかしく取り上げられ、教室にも噂話が広がっていました。〝もうすぐ人類が絶滅するって、ほんとかな〟と、びくびくしていたことを覚えています。
1995年には、「地下鉄サリン事件」という、衝撃的なテロ事件が発生しました。オウム真理教という宗教団体のメンバーが、東京都心を走る複数の地下鉄の車両内で、猛毒の神経ガス、サリンをまき散らしたのです。その過激な行動にも、〝終末〟の意識が関係していました。自分たちの宗教を広めることによって、人類滅亡を防ぐというのが、彼らの表向きの主張でした。そこにはノストラダムスの予言の影響があったと言われています。たくさんの死傷者が出た大変な出来事でしたが、ニュース番組を見つめる大人の表情には、〝終末〟にたいする好奇心も見え隠れしていた気がします。
たぶん、ポピュラーカルチャーが表現しているのは、世界の、というよりは、セカイの終わりの感覚なのではないでしょうか。そしてそれは、〝生まれてこなければよかった〟という感覚と、強く結びついているに違いありません。〝こんなセカイに、生まれてこなければよかった〟その苦しさがあるからこそ、セカイの終わりを想う。セカイの終わりを想うと、〝生まれてこなければよかった〟と、また苦しくなる。多くの人が、いつの間にか、このようなサイクルに取り込まれているのだと思います。
おどろおどろしい、アヤシイ展開になってきました。でも、〝終末〟と宗教のかかわりを知ることは、これからを生きる上で、大切だと思います。内村さんの話に戻る前に、あとちょっと遠回りしましょう。
※1
藤田直哉+ele-king編集部監修『日本の大衆文化はなぜ「終末」を描くのか――漫画、アニメ、音楽に観る「世界の終わり」』 Pヴァインを参考にしました。

※2
五島勉『ノストラダムスの大予言』祥伝社 この本については、元になったノストラダムスの著作の不適切な解釈や、誤った翻訳など、様々な問題点が指摘されていますので、注意が必要です。

※3
大阪朝日新聞の1918年8月26日付夕刊の記事です。大阪朝日新聞社長が襲撃されるなど、大問題に発展しました。「白虹(はっこう)事件」と呼ばれるこの出来事は、その後日本という国が第二次世界大戦に向かっていく、重大なターニングポイントでした。この出来事をきっかけに、新聞が政府や軍部の圧力に屈する場面が増え、戦争の歯止めとしての機能を失っていったのです。

※4
鈴木範久『内村鑑三日録 1918-1919 再臨運動』教文館 131頁

※5
「余がキリストの再臨に就て信ぜざる事共」(『内村鑑三全集』24巻、岩波書店)47頁のことばを、わたしなりにかみ砕きました。

※6
「聖書研究者の立場より見たる基督の再来」(『内村鑑三全集』24巻、岩波書店) 59頁
