イエスが、復活したこと。
矛盾していますよね。
イエスの霊や魂が復活したわけではない。あくまでも肉体をそなえた存在として、イエスは復活したんだ。内村さんは繰り返し、そう主張しました。たとえば「再臨運動」の時期に、こんなふうに語っています。
〝『聖書』が高らかにとなえているのは、肉体の復活なんだ。肉体の復活があって、はじめて霊魂の不滅に達することができるんだ〟※7
霊魂の復活や不滅という考え方なら、なんとなくイメージしやすいですよね。身近なところでは、この国にも、先祖の霊を迎えるお盆の行事があります。しかし、肉体そのものの復活となるとどうでしょうか。「福音書」には、一度死んだイエスが自分で歩き、弟子たちと話す場面があります。でもその時のイエスのからだの様子って、どんなものなのでしょう。わたしは何度も読み返しましたが、具体的に思い描くことはできませんでした。
じつは内村さんも同じだったのではないでしょうか。とはいえ、自分がわかってもいないことを無責任に言いふらしていたのとは、違うと思います。ここに、大切な何かがある気がする。だから、霊魂の話としてわかりやすく消化してしまうのではなく、あえてわからなさにとどまり、イエスの復活を考えつづけたい。そういう気持だったのではないでしょうか。
再臨は、古いギリシャ語で、「パルーシア(parousia)」と言います。最初から宗教的なことばとして使われていたわけではなく、もともとは出席や到着という意味をあらわす、ふつうのことばでした。後になって、キリストが再びこの世界にあらわれるという、特別なニュアンスで使われるようになったのです。「パルーシア」は、〝~と一緒に〟を意味する「パラ」と、〝存在〟を意味する「ウーシア」が合成してできていることばだそうです。再臨とは〝イエスという存在と一緒にいる〟状態だ。こんなシンプルなかたちに、再臨ということばを解きほぐすこともできると思います。
内村さんは、パウロの別の手紙を読んで、こんな不思議なことばを語っています。
〝わたしはキリストが死んだ時に死んだ。しかし死なないのだ。キリストのいのちがわたしの中で、わたしのかわりに生きるからだ。その意味で、キリスト信徒は、キリストそのものである。といっても、これは理想で、自分は全然そこまで達していない。自分はまだ完全に死んでおらず、自分の肉体で生きてしまっている。キリストはまだ、わたしを占領してくださらない。でもがっかりしなくてもいいんだ。完成の途上の日々を、完成を待ち望む日々を、信仰をもって生きていけばいいんだ〟※8
これも、簡単にはのみ込めませんよね。わたしの感想をシェアさせてください。
復活したイエス・キリストの見た目を知ることは大事ではありません。それよりも、自分の肉体が変わる瞬間、自分の肉体が自分のものでなくなる瞬間。その時に、イエスが一緒にいると感じられることが、大事なのだと思います。そうして、その瞬間にイエスの存在をまるごと受けいれ、わたしのからだがいつの間にかイエスそのものになっている……。これがイエスの復活なのではないでしょうか。
でもそれって、どんな瞬間なのでしょう。それは、愛し合う瞬間だと思います。わたしが差し出した手を、あなたが握り返す瞬間。あなたの手をわたしが握る瞬間。抱きしめ合う瞬間。大切なことばを交わし合う瞬間。どちらの手なのか、どちらのからだなのか、どちらの声なのか、わからなくなる瞬間。わたしの肉体がイエスの肉体になるだけではなく、わたしとあなたの肉体が、愛し合う瞬間に、イエスの肉体になる。
内村さんの人生は、愛そうとして憎んでしまう経験、愛されようとして憎まれてしまう経験の、積み重ねでした。それは〝自分を愛するように敵を愛せ〟というイエスのことばの重みと難しさを、何度も噛みしめていたということです。だからこそ、このような瞬間が奇跡であることを、身にしみて感じていたはずです。
内村さんは再臨の時期について、よく〝いつ来るかわからない。いきなり、いつの間にか来る。しかしずっと後に来る〟というふうに説明していました。ちょっとユーモラスな説明ですよね。これも、愛し合う瞬間の貴重さを知っていた、内村さんならではの態度だったと思います。
復活と再臨にかけた内村さんの思いを、わたしなりに大胆にかみ砕いてみます。
わたし一人だけなら、あなたがいなければ、けっしてイエスは復活しない。死んだイエスは、わたしとあなたのあいだによみがえる。いつなのかはわからないけれど、きっとそれは起こる。ずっと後かもしれない。いきなり、気がつけば起こっているかもしれない。もしかすると、わたしとあなたは愛し合えず、憎み合い、傷つけ合うだけかもしれない。イエスは、わたしとあなたのあいだには復活しないかもしれない。でも、別の誰かとのあいだで、いつかそれが起こるかもしれない……。
わたしは思います。〝それなら、よみがえるのはイエスだけではないのかもしれない〟って。つまりこういうことです。わたしと愛し合えなかったあなたが、わたしではない誰かと愛し合えた瞬間、そこにイエスだけではなく、わたしも復活するのではないでしょうか。あなたと愛し合えなかったわたしが、あなたではない誰かと愛し合えた瞬間、そこにイエスだけではなく、あなたも復活するのではないでしょうか。
いや、それだけではないのかもしれません。わたしがいなくなった世界でも、わたし以外のいのちが愛し合うことをやめないかぎり、わたしはイエスと共に、復活するのではないでしょうか。誰もがそうなのではないでしょうか。
だから……不十分な自分に、がっかりしなくてもいい。絶望しても、また希望を持つことができるかもしれない。イエスのように、おおらかに、友と敵と一緒に歩いてほしい。失敗さえも、よみがえりにつながる道なんだ。だから君たちは、それぞれの〝これから〟を安心して生きてほしい。
これが、内村さんのことばを読んできたわたしから、みなさんへ伝えたいことばです。みなさんのことばもいつか聞かせてくださいね。かならず、どこかでまた会いましょう。
※1
鈴木範久『内村鑑三日録 1918-1919 再臨運動』教文館 194頁を参考にしました。

※2
1919年2月21日の「日記」(『内村鑑三全集』33巻、岩波書店)74頁を参考にしました。

※3
「羅馬書の研究」(『内村鑑三全集』26巻、岩波書店)18頁の内容を、わたしなりにかみ砕きました。

※4
同前18~19頁の内容を、わたしなりにかみ砕きました。

※5
『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)を参考にしました。

※6
たとえば『旧約聖書』の「創世記」に含まれている、〝楽園追放〟の物語を読んでみてください。

※7
「基督の復活と再臨」(『内村鑑三全集』24巻、岩波書店)184頁の内容を、わたしなりにかみ砕きました。

※8
「加拉太書の研究」(『内村鑑三全集』29巻、岩波書店)44~45頁の内容を、わたしなりにかみ砕きました。
