『ストリートチルドレン メキシコシティの路上に生きる』を一通り書き終えた2002年末、メキシコシティの路上には、1万人を超える子どもたちが生活していると言われていた。そしてそこでは、ちょっとした変化が起きていた。2000年12月に大統領になった右派国民行動党(PAN)のビセンテ・フォックスが、選挙戦の時からずっと「ストリートチルドレン支援」を掲げていたためか、路上の子どもたちに対する政策や現地メディアの姿勢が、一見、子どもたちに好意的になったのだ。

地下鉄駅付近の路上で生活する少年たちを訪ね、会話をするなかで、施設に入る可能性を探るストリートエデュケーター(右端)。(1990年)撮影:篠田有史
「何も与えない」から「与える」に
私たちが路上の子どもたちを取材しはじめた1990年、メキシコシティ、当時「メキシコ連邦区(México DF)」という中央政府直轄だった首都では、DF政府の社会保護局がNGOと協力してストリートチルドレンを訪ねてまわる「ストリートエデュケーター」と呼ばれるスタッフを派遣し、子どもたちを保護施設へと誘っていた。DF政府は、男子用の定住施設と女子用の定住施設を直営していたからだ。そして、年末年始の寒い時期になると、バンで街のバスターミナルや公園、広場など、子どもたちが集まっている場所をまわり、「保護」して歩いた。保護された子どもたちが送られる施設は、刑務所のように何百人もを収容、指導するもので、遊び盛りの子どもにとっては最悪な環境だったが、少なくともNGOだけでなく公的機関も支援を積極的に行っていたのは、確かだった。ところが90年代後半になると、公的施設は閉鎖となり、そこにいた子どもたちは皆、「ストリートチルドレン支援NGO」として活動していた複数の民間団体が持つ定住施設へ割り振られ、支援は民間に丸投げされる。
そして、21世紀初め、支援は再び、公民連携の方向へと動いた。ただし、双方の間の理解はスムーズには進まず、また公的な定住施設はホームレスの大人たちと同じ敷地内に設けられた1カ所のみで、NGOの協力がなければ子どもがそこで1日中すごすことは、退屈すぎて、ほぼ不可能だった。
1990年代初め、メキシコ連邦区政府の社会保護局が運営していた保護施設で生活する少女たち。この施設には、200人余りの少女が収容されていた。撮影:篠田有史
政府は、自前で始めた様々な支援にお金を注ぎ込んだが、問題の本質を十分に理解したスタッフを揃えなかったために目指したことは達成されず、結局は長期的な活動を続けているNGOが、有効な支援の中心的な役割を担うことになる。
その一方で、路上に居続ける子どもたちの元へは、カトリック教会関係や企業など、あらゆる組織から、定期的に食事が届けられていた。しかもその中身は、普通の貧困家庭よりもずっといい食事。それを見たNGOのスタッフたちは、「これじゃあ、子どもたちは路上生活を抜け出そうと思わない」と、ぼやくはめになる。路上の子どもたちへの支援というのは、何でも与えればいいというものではない。長年の経験からそれを知るNGOスタッフは、子どもたちへの支援の内容を自分たちの都合で決めるお上の姿勢に、うんざりしていた。
「私たちがいくら路上以外の人生の選択肢を考えられるように導こうとしても、路上で快適に暮らせてしまえば、考える気が起きなくなってしまう。そして、やがては薬物依存が深刻化し、未来ある生活を築くことが難しくなる」
毎日のように子どもたちと会い、食事に不自由しない分のお金を薬物に費やす姿を見ているストリートエデュケーターたちは、そう嘆きの声をあげた。
1990年代後半、メキシコシティ旧市街にある広場や公園で暮らす子どもたちの間では、カップルが生まれ、妊娠する少女(右)もいた。彼らに対し、当時の政府機関は食事を配っていた。撮影:篠田有史