鏡の前に立つと、そこには何とも慎ましやかな女性の姿が映っていました」
笑みを浮かべるジェシカの口調は、ぐっと穏やかになっていた。
垢とともにギャング癖も流し去ったかのように、彼女は以後、老女から手渡された真新しい聖書を熱心に読み始める。実は独房に入る際も聖書を一冊渡されていたのだが、すべてのページが「灰になっていた」。ページを引きちぎっては、看守にこっそりもらったタバコの葉を少しずつ乗せ、巻きタバコにして吸ってしまったのだ。しかし今度は、本気で神の言葉に耳を傾けようと決心する。
「私が今、ギャングとは異なる振る舞いができているとしたら、それはすべて、この刑務所での経験のおかげです」
確かに目の前にいる彼女の態度からは、ギャングの女性リーダーという経歴をうかがわせるものは感じられない。幾つも刻まれたタトゥーさえ気にしなければ、とても礼儀正しく常に周りを気遣う親切な女性だ。
慎ましさを身につけたギャング娘は、それから3年近い歳月を、エル・プログレーソ刑務所で過ごすことになる。その間、服役囚のために用意された様々な職業訓練に参加し、溶接工に菓子職人、空き缶などを使うリサイクル工芸職人や自然薬の薬剤師の資格も取った。
「大抵のことは自分でできます。子どもの病気やけがも、薬草で治せるんですよ」
ジェシカは少し自慢げにそう言って微笑んだ。
負への回帰の先に
これでもう二度と道を外れないだろう。刑務所生活も残り1年を切り、本人もそう思い始めていた矢先、次なる試練が襲ってきた。
「サン・ペドロ・スーラの刑務所へ戻されることになってしまったんです」
ギャングだらけの環境に引き戻される。そうなった時、やっと身につけた真っ当な生き方を貫き通せるのか。ジェシカは自分自身に対する不安を抱き始める。そうこうするうちに、移送の日は訪れた。
帰ってきたサン・ペドロ・スーラ刑務所を仕切るギャングの顔ぶれは、ジェシカが事件を起こした当時とは、すっかり変わっていた。彼女の身の安全にとっては良いことだったが、同時に不安材料でもあった。服役囚それぞれの立場や力関係が掴めなかったからだ。
「聖書が入ったリュックを背負い、恐る恐る中へ入ると、そこにはMS-13のメンバーがいました。すぐ近くには、敵であるバリオ・ディエシオチョ(M-18)の連中も。両者が親しげに雑談してたんです。驚きました」
彼女がマラスの世界を離れている間に、二大マラスであるMS-13とM-18は、政府による弾圧に耐えるための休戦状態に入っていた。だから、刑務所内にも不気味なくらい、和気あいあいとした空気が流れていたのだ。
不安をぬぐいきれないジェシカは、夜、看守に「明日、(刑務所内に作られた)教会の活動に参加したい者はいるか」と尋ねられると、すぐに手を挙げた。とにかく心を落ち着かせて、二度と暴力の世界に関わることなく生きたかった。
「暴力が私の人間性を破壊した。そう感じていたので」
幸い、ジェシカは、刑務所内の教会に通う女性たちのリーダー役を任されることになった。そんな彼女の様子に好奇の目を向ける、古い知り合いがいた。
「コネーハ、お前も随分としおらしくなったな」
声をかけてきたのは、彼女をエル・プログレーソ刑務所へと逃がしてくれたホーミー、プラカーソの兄であるチャカンだった。彼はマラスではなく、彼らに麻薬を卸している麻薬犯罪組織のメンバーだ。プラカーソのことを尋ねると、「弟は殺された」と言った。経緯は語らなかったが、ジェシカを逃したこととは関係がないようだった。
「チャカンは私に好意を持っていました。ある日、刑務所内のカップルや面会に来た妻や恋人と囚人が過ごすための部屋に、私を呼び出しました。交際を申し込んできたんです」
その頃、唯一信頼できる人間だった男からの申し出を、ジェシカは受け入れることにする。しかし、それが彼女をギャングの世界へと引き戻してしまう。彼の周りには、商売相手であるマラスの連中が常にいたからだ。
「日常的にコカインをやり、ちょっと頭にくると人を殴る。そんな日々に逆戻りしてしまいました。私、バカなんです」
憂鬱な目に後悔の念が滲む。
更生の道を外れ、闇の世界へ沈み込んでいく自分を止められずにいると、状況は更に悪化する。
「そのうち、また別の男と知り合いました。銀行を襲ったり、車を盗んだりする強盗団のメンバーです。麻薬漬けで浅はかだった私は、チャカンと別れ、新たな恋人と付き合い始めました。そして、妊娠したのです」
3度目の妊娠。その事実は、彼女の心を激しくかき乱した。
「3人目の子ども。でも私は、最初の2人を人任せにし、この手で育てませんでした。最低です。だから、こんなひどい状況の中で再び妊娠した自分が、心底恐ろしくなりました。この子をもまた、麻薬や人殺しの世界に執着する母親の犠牲にするのか、と」
話を続ける彼女の目から、突然、大粒の涙が溢れ出した。まるで、妊娠を知った瞬間にタイムスリップしたかのようだった。彼女は、生まれてくる子どもに自分が与えることになるであろう人生に慄(おのの)き、自分自身を恨み、誰も信頼できなくなっていった。
「この子が生まれる前に、いっそ死んでしまいたい。本気でそう思いました。ヤケを起こしてコカインを乱用し、体調が悪くなるとHIVに感染しているのだと思い込み、気が変になりそうだったんです」
おなかの子どもの父親ともほとんど顔を合わせることなく、ジェシカは一人、自分の人生を呪い続けた。そんな時、不思議な出来事が起きる。それは、外国からのある訪問者によってもたらされた。
「ある時、女性服役囚は全員、中庭に集まるようにと言われました。皆が出ていくと、そこにイスラエルから来たという、頭に布のようなものを巻いた宗教者が一人立っていました。彼は、私たちに尋ねたんです。『腕に蝶のタトゥーをしている人はいますか』と」
訪問者は、「神のお告げに従って、ここまで来た」と話した。神の声が、こう命じたというのだ。
「中米のホンジュラスという国の刑務所に、とても辛い人生を送ってきた女性がいる。その女性の腕には蝶のタトゥーがある。