
私たちからのおみやげ「ドラゴンTシャツ」を着て、路上仲間の少女と戯れるカルロス。2004年 撮影:篠田有史
他者との間に生まれたささやかな友情に感謝することも、忘れなかった。
「この間、ボクのあだ名を日本語でどう言うか、教えてくれたでしょ。あれ、ほんと楽しかったよ」
そう目を細める。彼のあだ名「ラティータ」は、日本語で「Konezumi(小ネズミ)」だと教えた時のことだ。私たちが日本で買ってきてプレゼントしたドラゴンのキーホルダーを仲間に奪われた時などは、お金を払うなら返すと言う相手に、すんなりコインを手渡した。
「え、せっかく稼いだお金を渡しちゃうの?」
そう不思議がる私に、
「だってこっちのほうが大事だもの」
と、戻ってきたキーホルダーを目の前で揺らしてみせる。

カルロスは、この日、私(左)たちと一緒に乗合バスに乗り、メキシコシティ旧市街にある博物館へ出かけた。2004年 撮影:篠田有史
そうして距離が縮まるにつれて、カルロスが自分のことを話してくれる機会も増えていった。
例えば、日本から何カ月ぶりかに戻ってきた時、「どうしてた?」と尋ねると、警察によって強制的に施設に入れられていた、と打ち明けた。
「3カ月間も閉じ込められていたんだ。そこでは毎朝5時起きで、部屋の掃除をして、その後、長い説教を聞かされ、言われたことをちゃんとやらないと、膝にブロックをのせて床に座るというお仕置きを受けた。そんなだったから、ほかの施設での映画上映会に出かけた時に、隙を見て脱走したんだ」
脱走少年は、公的保護施設の生活環境は最悪だった、と訴えた。だが、「ひとつだけ、いいこともあった」と続ける。
「その施設にいる間は、アクティーボとか、一切使わなかったんだよっ」
なんだ、使わないほうがいいということ、頭ではわかっているんだ。私は、心の中でそうつぶやいた。
嫉妬
その後、カルロスの住まいは、これまでいた地下鉄駅上の広場よりも南にある、よりこぢんまりとした広場に移った。以前も一時期、そこにいたことがあったが、今度はより多くの仲間と共に、ビニールシートのテントを張って暮らしていた。そこには、年上、年下の少年少女だけでなく、日本なら「ホームレス」と呼ばれる大人も何人かおり、なかには乳母車に赤ん坊を乗せている若い女性もいた。
1990年代にティーンエイジャー中心の子どもたちが集っていた頃に比べると、その場の空気は、より重く陰気なものに感じられた。家出少年・少女が肩を寄せ合う、というのではなく、そこには何かしらの主従関係のようなものが存在していた。路上生活が長い中年の男や女、庇護者のような顔をした大人が、子どもたちを支配しているようなところがあった。それでも子どもたちは、親にすら見守ってもらった経験がないからか、その支配を受け入れているようにも見えた。
そんななか、年頃になったカルロスは、やがてガールフレンドをつくりたいと望むようになる。その頃、周りには意外と大勢の少女がいたからだ。
私たちがこの街で取材を始めた頃には、路上暮らしの子どものほんの1割ほどしかいないと言われていた少女たちが、この頃には3割を超えるようになっていた。それだけ経済的に苦しい家庭内の状況が、悪化していたのだろう。1994年にメキシコと米国とカナダの間で北米自由貿易協定(NAFTA)が発効して以降、メキシコでは、以前よりも急速に格差が拡大し、貧困層の男たちはまともな仕事も稼ぎも得られないストレスから、ますます周囲の女性――恋人や妻、娘――に暴力を振るうようになっていた。大抵は家事手伝いや家政婦として働かされていた貧困家庭の少女たちも、自分の家の中にすら安らげる場所を見出せなくなると、敢えて過酷な路上生活を選択するようになったのだ。

当時、路上には少女の姿が増え、彼女たちは身を守るために、大勢の少年たちとともに暮らしていた 撮影:篠田有史