エチオピアの国民食「インジェラ」
アフリカで最も好きな国はどこかと尋ねられたら、おそらく「エチオピア」と答えると思う。
80以上の民族がそれぞれ異なる言語やユニークな伝統様式を有し、エチオピア正教の教えに従って現在も計13カ月で1年が構成されるユリウス暦を採用するなど、人々は独自色の強い魅力的な文化や生活をいまも大切にしながら暮らしている。
道を行き交う女性たちは、純白の綿で作られた、体がしなやかに見える刺繡入りの伝統的なワンピースを身につけ、人々は道ばたですれ違うたびに日本でいう「お辞儀」のような仕種を交わし、静寂や謙遜を美徳としながら生きている。
そして何より、国民食である「インジェラ」だろう。
その魅惑的な食べ物を私が初めて知ったのは、日本で読んだある書籍だった。
ノンフィクション作家・中村安希が2011年に著した『食べる。』（集英社）。
書籍では、旅先で出合った15の食べ物やそれにまつわる文化が取り上げられているが、その最初に紹介されていたのが、エチオピアのインジェラだった。
彼女はその食べ物の特徴を次のように書いていた。
《その料理の噂を初めて耳にしたのは、2007年の春、パキスタンの山中に滞在していたときだった。私は、シングルベッドが二つある個室を日本人の女性旅行者とシェアしていて、毎晩それぞれのベッドに入ったあと、彼女から旅の話を聞かせてもらっていた。（中略）
「南京虫を除けば、エチオピアはすごくよかった。民族とか、音楽とか、文化的には相当面白かったから。それから、あの国には独特の食べ物があって」
旅人の間でその料理は“ゲロ雑巾”と呼ばれていたと言って、彼女は笑った。
「好きになる人もいるみたいなんだけど、なんていうかゲロみたいに酸っぱくて、ほんとうにボロボロの雑巾みたいな色をしてて」》
アフリカの赴任前だった私は最初にこの文章を読んだとき、この異国の郷土料理の食感や味をうまく想像することができなかった。「ゲロ雑巾」という表現からは――どう控えめに考えてみても――その食べ物が美味しいようには思えない。
しかし書籍を読み進めていくと、最初は抵抗を示した著者も次第に夢中になってしまい、最後にはその味を求めてエチオピアを再訪してしまうほど、「ゲロ雑巾」にとりつかれてしまっているのだ。
インジェラとはいかなる食べ物なのか――。
何度もエチオピアに通って食した経験から言えば、それは日本人の梅干しや納豆に相当するような、外国人にとっては一見グロテスクではあるけれども、エチオピアの食事にはなくてはならない食べ物である。
原料はテフと呼ばれるイネ科の穀物で、私がエチオピア南部の食堂で聞いた調理法によると、①まずテフの粉と水を1対2の割合で混ぜ合わせ、②乳酸菌を加えて発酵させる。③その後容器にふたをして1日寝かせた後、④酸味の強い上澄みを捨て、⑤直径約1メートルのクレープのようにして焼き上げる、という手順を踏むらしい。
食卓に出すときは、インジェラの中央にそれぞれ香辛料で煮込んだ羊肉や野菜を添える。食べるときは片手でインジェラをちぎり、タコスのように肉や野菜を挟んで食べる。
最初にエチオピアでインジェラを口にしたとき、中村の表現力に脱帽した。『食べる。』で表現されていた通り、それは酸っぱく、肉や野菜もドロリとしていて、見た目もにおいも「あの味」なのだ。「これは無理だな」と私も思った。
ところが、エチオピアに出張するたびに、必ずインジェラが追いかけてくる。取材先の民家でも、国立公園内のロッジでも、地方へのバスを待っているときの露店でも、インジェラは国民食であると同時に、客人をもてなすための接待食でもあるらしいのだ。
しかし不思議なことに、作り笑いで何度か無理やり口に運んでいるうちに、食事の際にはその酸っぱさがだんだん気にならなくなってくる。
すると、どうだろう。インジェラの酸味が煮込まれた羊肉や野菜の甘さと混ざり合い、まるでブイヤベースにバケットを浸して食べたときのように、何ともいえない、深みとコクのある魅惑的な味に変化していくのだ。「インジェラ・マジック」――エチオピア人たちは独自の味の変化をそう形容していた。
今ではエチオピアに出張した際には必ずインジェラを頼んでしまうし、食事の終盤には煮物の汁を吸って皿の底に張り付いたインジェラを、地元のエチオピア人と指で激しく争っている。時々、本場のインジェラを食べるために、エチオピア出張を企画しているのではないかと自分でも思ってしまうほどである。
インジェラを食した後の、伝統の「コーヒー・セレモニー」も魅力的だ。
エチオピアはコーヒー発祥の地との説があり、招かれた家では長老や家長が集落の伝統について語るなか、女性たちが日本の茶道のように鉄器を使って豆を煎り、抽出した濃厚なコーヒーを客人に振る舞う。
私が好きなアフリカ関連のエッセーの一つに、朝日新聞のアフリカ特派員を務めた伊藤正孝の書籍『アフリカ33景』（朝日文庫）に収められた、「エチオピアの画家・水野富美夫」がある。
才能のある40代の画家がある日、家族を日本においてエチオピアに出かけ、そのまま帰ってこなくなる。画家は酒が飲めないのにもかかわらず、現地のバーに通い詰めてそこで働く娼婦の女性を描き続ける。彼は貧しい生活を送る娼婦たちを半ば養いながら絵を描き続けたが、やがて金銭的に逼迫し、逆に娼婦の一人に引き取られて、娼婦の家族と一緒に町の一角で暮らし始める。
伊藤は画家との出会いを次のように回想している。
《1969年、アジスアベバで私たちは会いました。あなたは横浜からアフリカに流れてきて4年目、まだ52歳でした。ヌファースルク（風の電話）という街区に住んでいて、この地名が好きだと、幾度も口にしていた。電話局が町角に建って以来、地元の人がそう呼び始めたという。「エチオピア人は、電話の原理は風だと思っているんですね。電流ではなくて、風が遠くの声を運んでくる。どうです、ロマンチックでしょう」と、あなたは繰り返した。》
私は長らく確信している。
画家が感じていたのは「風」だけではない。きっと「インジェラ」の味にとらわれて、エチオピアから離れられなくなったに違いないのだ。
（2015年7月）
