何もないことはわかっていた。
でもその何もない風景のなかで、私は空を見上げてみたかった。90年前に「彼」が降り立ち、「何もないな」とつぶやきながら見上げただろう、その空を――。
アフリカを離任する前に、私にはどうしても訪れたい場所があった。
北アフリカの砂漠の国モロッコ西部にあるタルファヤ(旧ジュビー岬)。飛行機をこよなく愛したフランスの作家サン=テグジュペリ(1900~1944年)が1927年、航空郵便会社の飛行場長として勤務した大西洋に面する小さな岬だ。
彼はそこで初期作品『南方郵便機』を執筆し、後の代表作となる『人間の大地』や『星の王子さま』の題材を得たとされる。学生時代、『人間の大地』を読んでパイロットになることを夢見ていた私は、アフリカ勤務を終えるにあたり、かつての「憧れの地」を訪れてみようと思ったのだ。
モロッコの最大都市カサブランカからプロペラ機で中部の小都市タンタンに到着し、そこから四輪駆動車で約2時間半。砂漠の間を縫うようにして伸びる片側一車線の舗装道路の先に目的地のタルファヤはあった。海と砂漠に挟まれた、お世辞にもにぎやかとはいえない、小さな港町だった。
町の中心部には、サン=テグジュペリがこの地に勤務していたことを伝える小さな博物館が建てられている。町の友好協会が2004年に設立したもので、彼の作品や年表、当時の写真などが展示されていた。
「世界中からサン=テグジュペリのファンがやってくるんだ」と運営を担うホダイビ・モハムドが微笑みながら説明してくれた。
「それぞれの言語で書かれた『星の王子さま』を持ってね」
モハムドに案内されて、町の外れにある当時サン=テグジュペリが使っていた滑走路や建物群などを見て回った。地面がむき出しの滑走路はいまも使用可能なように見えたが、建物は長年の風雨にさらされて、砂漠にのまれる一歩手前の廃虚のようになっていた。サン=テグジュペリの当時の姿を思わせるものは他にない。「仕方がないよ。彼がここにいたのは90年も前のことなのだから」とモハムドは残念そうに首を振った。
ところがその晩、運良く90年前のサン=テグジュペリを知る「生き証人」に会うことができた。
バシール・ラフダイアム、年齢101歳。町の友好協会会長によると、彼は10歳のときに友人と一緒にサン=テグジュペリが操縦する軽飛行機に乗せてもらったことがあるのだという。
「とても優しい人だった。子どもの我々には特に」と101歳は遠い目をして振り返った。「勇気のある男だった。当時の飛行機は事故が多かったが、彼は仲間を捜しに夜に飛び立つことも多かった。勇敢な男だった」
サン=テグジュペリがタルファヤに勤務したのは、彼が27歳のときだった。それまでの彼は私と同様、あまりぱっとしない青春を送っていたらしい。1900年にフランス南東部リヨンで生まれ、子どもの頃から飛行機で空を飛ぶことを夢見て育った彼は、海軍士官学校の試験に失敗し、仕事も恋愛もうまくいかない。結局、自費で民間飛行の免許を取得し、1926年、郵便航空会社のパイロットとして採用された。
当時のフランスはアフリカ大陸に多くの保護領を持っており、その広大なエリアにいち早く郵便物を届ける必要に迫られていた。
そこで光が当たったのが、当時まだ発展途上の飛行機を使った航空郵便である。サン=テグジュペリが就職したラテコエール郵便航空会社(後のアエロポスタル社)は、1918年にフランス南部トゥールーズに設立されると、翌年にはトゥールーズとカサブランカを結ぶ路線を確立し、1925年にはさらにカサブランカからダカールへの路線を開通させて、その中間にあたるタルファヤに中継基地を置いた。
サン=テグジュペリはタルファヤに配属後、母親に向けて次のような手紙を送っている。
- まったく修道僧のような生活を送っています。アフリカ大陸の中でも最も辺鄙(へんぴ)な場所に住んでいるのです。(中略)砂浜には砦(とりで)が一つ、そして、それと背中合わせに僕らのバラック。それ以外には数百キロにわたって何ひとつありません。(『人間の大地』渋谷豊訳、光文社古典新訳文庫)
当時の飛行機はエンジンの故障が多く、パイロットたちは不時着できる場所を常に地表に確認しながら飛行していた。サン=テグジュペリはジュビー岬での勤務中、不時着した仲間の郵便機の救出に飛び回り続ける。
1929年にはアフリカから南米へと勤務地を移して郵便航路の開拓事業に従事するが、そこでも冬のアンデス山脈で遭難した同僚を捜して飛び回る。学生時代、私が何度も読み返した『人間の大地』。そこで語られる物語の最大のテーマは間違いなく「友情」である。
大好きだった一文がある。
- 職業というものの尊さは、何よりもまず、人と人を結びつけることにある。この世に本当の贅沢(ぜいたく)は一つしかない。人間の関係という贅沢がそれだ。(同)
実際、この大陸で職業記者として働いていると、「あるいはアフリカ特派員という仕事は、サン=テグジュペリが空を飛んでいた頃のパイロットに似ているのかもしれないな」と思うことが少なくなかった。
共通しているのは、大自然への畏怖(いふ)と、一度仕事に出たら、もう二度と家には帰れないかもしれないと思う、その瞬間である。
紛争地や疫病の感染地帯に飛び込んでいくアフリカ特派員の仕事は、どんなに安全確保に万全を期しても、結局は先が見通せない仕事だった。それはきっとジャーナリズムが内包している、避けがたい特性の一つでもあるのだろう。サン=テグジュペリが操縦していた飛行機が何度も不具合を起こして墜落したように、私もいくつかの予期せぬ危険に遭遇した。
しかし、そんな職業的な日々を繰り返していくうちに、私の中には次第にある感情が芽生えていった。
それはかつてサン=テグジュペリも著したような、仲間や同業者への尊敬と信頼、そして友情といった感情である。
日々、生と死を絶えず行き来することで、初めて見えてくるものがある。
私が南スーダンで危険な現場を取材していたとき、日本では、その状況を少しでも伝えようと、現地に派遣されていた自衛隊の日報記録を情報公開請求し、事実を隠蔽(いんぺい)しようとした政府を追及し続けるフリージャーナリストがいた。新聞社の同僚たちはそのとき、危険を承知で「イスラム国」(IS)に支配されたイラクの都市部に乗り込もうとしていた。