伝統の踊りを踊るルワンダの人々
ルワンダはあまりに美しい国だった。
国全体がアフリカ中部の高地に位置しているために気温も冷涼で、「千の丘の国」と呼ばれるように、見渡す限りの地平線に穏やかな山の稜線が幾重にも連なる風景は、日本の長野県のそれに似ていた。
人々は皆親切でホスピタリティにあふれており、だからなぜ、この国の人々がわずか100日の間に80万人以上もの隣人を殺めてしまったのか、にわかには信じることができなかった。
1994年、ルワンダ国内で多数派民族が少数派民族をナタやこん棒で殴り殺した「ルワンダの大虐殺」。多くの地区で少数派民族が根絶やしにされるといった人類史上最悪の記憶を、人々はどのように昇華させているのか、あるいは心の中にわだかまりとして残しているのか。いくつかの書籍を読み進めてみても、肝心なところがいま一つわからなかったため、2016年2月、思い切って現地を訪ねてみることにした。この世界には、本を読むだけではわからないことが少なからずあるのだ。
訪れた首都キガリの「集団虐殺記念館」には、市内で殺害されたという約2万9000柱の遺骨が収容されていた。展示室にはナタで切りつけられた痕がしっかりと残る数十もの割れた頭蓋骨の実物が並べられており、この国で当時何が起きたのか、来訪者に無言で語りかける展示になっていた。
案内版の表示に沿って進むと、床一面が遺体で埋まった教会の写真が大きく引き延ばされて展示されていた。花柄のスカートの下から突きだしている無数の骨にはまだ肉片がこびりついており、子どもとみられる小さな骸骨は、不自然に首から折れて大きな大人の骨にもたれかかっている。
「これらはCG(コンピューター・グラフィックス)ではありません」と案内してくれた記念館の女性が私に言った。「どれもが実際にこの国で起きた事実なのです」
私には聞いてみたい質問があった。
「この国にはいまも加害者側であるが多数派民族がたくさん暮らしていますよね。ここまでダイレクトに虐殺の事実を展示しても、苦情のようなものは寄せられたりしないのでしょうか?」
「その質問にはお答えする必要がないように思います」と案内係の女性はきっぱりと言い切った。「事実を覆い隠すこともできますが、それでは記憶を継承していくことはできません。何が起きたのかを伝えることが、我々の記念館の使命です」
私は許可を得て虐殺現場の写真をカメラで撮影し、説明書きに記されていた教会の住所を小さくメモした。そこには「ンタラマ」と土地の名前が記されていた。
翌日、車でンタラマ村を訪れてみると、虐殺のあった教会は町の中心部から外れた丘の上に現存していた。崩れた教会の壁の形が、キガリの記念館に展示されていた写真のそれと合致しており、いまは資料館として使われているらしかった。
「ここでは約5000人の住民が殺害されました」。中に入ると、ボランティアで案内を担当しているという黒人の中年女性が解説してくれた。「みんな、教会では人殺しはしないだろうと思ってここに避難してきたのです。それがあだになりました。民兵たちは人々を銃で脅して礼拝堂へと押し込むと、外から扉の鍵を閉め、笑いながら自動小銃を乱射したり、窓から手榴弾を放り込んだりしたのです。それでも全員は殺せなかったので、最後には礼拝堂に火をつけました」
礼拝堂の周囲は墓地になっており、まだ埋葬できていない数百の遺骨が粗末なバラック小屋の棚に並べられていた。人が生きたまま焼かれた調理室や、子どもの足を取って壁に投げつけ、頭蓋骨をかち割って殺したという日曜教室の壁などがそのまま保存されていた。どれほどの勢いで小さな頭をそこにぶつけたのか、日曜教室の壁はその一部分だけがすり減り、わずかなくぼみとなって残っていた。
「彼らは『ゴキブリを殺せ』と叫んで少数派の住民を殺しました」とボランティアの女性は静かに言った。「人を『ゴキブリ』にたとえるなんて、あなたは大昔の狂気だとお思いになるかもしれません。でも、私たちにとっては身近な、国民の多くが共有しているたった20年前の記憶なのです」
多数派民族のフツ人と少数派民族のツチ人はかつて、この美しいルワンダで友好的に暮らしていた。同じ丘で暮らし、同じ言語を話し、民族間で結婚も交わした。
その仲を切り裂いたのは、旧宗主国のベルギーだったといわれている。ルワンダに科学者を送り込み、現地人の体重や頭蓋骨の容量、鼻梁隆起などを測定した結果、「少数派のツチ人は、多数派のフツ人よりも鼻が高いため、より西洋人に近い」などと結論をでっち上げ、多数派のフツ人を少数派のツチ人に間接統治させる形で植民地支配を進めたのだ。
1962年にベルギーから独立し、多数派のフツ人が大統領になった後も、人々は互いに憎みあい、何度も衝突し、そのたびに多くの犠牲者を出し続けた。
1994年4月6日、多数派のフツ人の大統領が乗った飛行機がキガリ空港の着陸寸前に何者かによってミサイルで撃墜されると、混乱に乗じて国家権力を掌握したフツ人の急進勢力が多数派のフツ人の民衆に対し、「ツチ人は国家転覆を企む反逆者である」と名指しして、皆殺しにするようラジオで扇動し始めた。
虐殺は首都キガリで始まり、やがて地方や農村部へと広がっていった。
人々はこれまで同じ地域で暮らしてきた少数派のツチ人の隣人を探し出すと、彼らを捕らえて容赦なく尋問し、略奪し、殺害した。殺戮を主導したのは地方の行政幹部や教師などのエリート層で、実行部隊となったのは若者たちによって構成された民兵組織だったといわれている。
人類史上に例を見ない80万人もの大量虐殺に使用されたのは、原爆でもトマホークでもカラシニコフ銃でもなく、市民を扇動するラジオと、人々が農作業で使っていた原始的なナタだった。
米国人ジャーナリストのフィリップ・ゴーレイヴィッチが著した『ジェノサイドの丘』(柳下毅一郎訳、WAVE出版)には、当時の様子が次のように記されている。
「ジェノサイドの期間中、殺人者たちには『仕事を片付けろ!』と激励の言葉がかけられた。(中略)死者たちと殺人者たちとは隣人同士であり、同級生であり、同僚であり、ときには友人同士であり、親類の場合さえあった。(中略)ツチ族の人々から保護を求められたフツ族市長は、教会に避難するように勧めた。ツチ族がその言葉に従うと、数日後市長が先頭に立って殺しにきた。市長は兵士、警官、民兵、それに村人たちを率いていた。武器を配り、仕事をやりとげるようにと命令を下した。それだけでも充分だったが、市長はみずから数名のツチ族を殺した」
ジェノサイドからの生還者(サバイバー)を見つけるのは簡単だった。