とはいえ、ハマムではそれ以上の親密さで女性たちが近寄ってきた。英語を話せる人もいれば、おかまいなしにアラビア語で話しかけてくる人もいる。いずれにしても、ガザの女性たちは、この特別な社交場であるハマムでも私たちを大歓迎してくれた。
海外派遣中はシャワーを使えるだけでもありがたい。時にはそのシャワーさえお湯が出ないという不自由な環境にも直面するというのに、まさか、ガザで汗を流しながら蒸し風呂を楽しみ、たっぷりのお湯を使って身体を洗えるなど、想像もできなかった。ハマムは週に1度の私の休日の楽しみとなった。
ハマムで出会った女の子
ある休日、いつものようにハマムに出向いた。相変わらず多くの女性たちの社交の熱気が、風呂の蒸気とともに溢れていた。おなじみとなった顔、新しく出会う顔、私はやはりみんなに注目され、おしゃべりの中心となっていた。私の身体や髪の毛を洗ってくれる女性たちもいた。おせっかいとも思ったが、これらは歓迎の儀式だと思ってされるがままでいた。
ハマムには親に連れてこられた子どもたちも必ずいた。どうやって私に話しかけようかと、2~3人で固まってモジモジしているグループもあれば、習いたてと思われる英語で積極的に話してくる勇気ある女の子たちもいた。
ある日、10歳くらいの女の子が、私を囲む女性たちの輪から少し離れた場所で1人、じーっと真剣に私を見つめていた。はじめは、他の女の子同様、私に興味を持ち、交流を持つきっかけを探っているのだろう、と思っていた。しばらくして、その女の子が輪の中心に近づいてきた。相変わらず、真剣な顔だった。不思議なものを見ている、そんな表情でもあった。そして女の子は私に向かって口を開いた。
「ガザの外ってどうなっているの?」
私を囲んでいた女性たちが一瞬にして固まった。
絶えない笑い声とおしゃべりが凍りつき、私の身体や頭を痛いくらいにゴシゴシと洗っていた手から力が抜けていった。
「ガザの外ってどうなっているの?」
それは禁句だったのかも知れない。
いや、本当はみんなが心の底から口にしたい言葉だったのかも知れなかった。
周囲の女性たちは、動揺を悟られないようにするためだろうか、すぐにまた私の身体を洗い始めた。笑みは保っていたが、笑い声は消えていた。彼女たちの手からは悲しさと、諦めと、今まで口にしないできた忍耐と、自分たちの尊厳を保とうとする努力が伝わってくるかのようだった。
女の子はきょとんとしていた。私もどうしたら良いか全くわからなかった。何も答えることができなかった。
私を囲んでいた女性の1人が、女の子に言った。
「こっちにおいで」
そして抱きしめ、おでこにキスをしていた。
血と涙は今も流れ続けている
世界で1番人口密度が高い地域、ガザ。失業率も世界最悪である。
外に出ることができず、かといってガザの中でも仕事がなく、行き場のない人々。特に青年たちは、やり場のない憤りをガザとイスラエルの境界域、彼らを閉じ込めている塀の外にぶつけに出向く。解放を、自由を求めて叫ぶ彼らは、境界域の向こう側で構えているイスラエル兵士に撃たれる。
私たち「国境なき医師団」は、銃撃を受けた青年たちの銃創の治療を行っていた。このような青年患者がどんどん増え続け、クリニックが1カ所では足りなくなり、2カ所めもオープンさせたがすぐにいっぱいになった。私が到着したときには3カ所めのクリニックをオープンさせるための候補地を探しているところだった。
クリニックの待合室は、傷病者という形で少しの間、居場所を確保した青年たちでいつでも満員だった。傷が治ることは、本来なら望ましいことだ。しかし、治療が終わって、もうこのクリニックに来る理由がなくなった後、彼らはどこに行けるというのだろう。身体の傷が治った瞬間から、青年たちの苦しみが再びはじまる。
他人に決められた監獄の中で閉じ込められながら、生きていく。
心の涙を流しながら、血を流しながらも力強く生きていかなくてはならない。
これが15年から16年にかけ、4カ月にわたって私が見たガザの人々だった。
「ガザの外ってどうなっているの?」と聞かれても、それを説明することのできないガザの大人たち。あの時、ハマムで少女を抱きしめてキスをしていた女性は、あの子に何と言ってあげられたのだろう。
◆ガザの子どもたちと◆
街中で知り合った子どもたちが、アラビア語での数の数え方を教えてくれた。子どもたちはみんな、人懐こく、笑顔がまぶしい。20まで数え終わると歓声が沸いた。
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