私は連載終了後も時折新聞配達を続けながら浪江町が復興していく様子を――あるいは復興できずに荒廃していく様子を――定点観測的に記録できないかと考え、まずはその手始めとして前回取材ができなかった馬場町長に「町長の半生を口述筆記の形で書き残させて頂けないか」と取材依頼の手紙を出していた。
浪江町は「悲劇の町」と呼ばれる。
町内に原発が立地していないにもかかわらず、原発の爆発事故によって巻き上げられた大量の放射性物質を含んだ雲(プルーム)が浪江町内を縦貫するように北西方向へと流れ、やがて雨や雪と共に町内全域に降り注いだ。国や福島県は当時、それらの雲の流れを事前に察知していたが、その情報は浪江町には伝えらず、町は結果的に――あるいは悲劇的に――町民をあえて放射線量の極めて高い地域へと避難させてしまっていた。
馬場町長は震災前の2007年に町長に就任し、リーダーとしてその後の原発事故や6年に及んだ全町避難の対応にあたった第一級の当事者だった。私はそんな馬場町長の半生を口述筆記で記録することにより、浪江町や浪江町民が背負った「悲劇」の詳細を自らの手で書き残せないかと考えたのだ。
当初、取材依頼は病気を理由に断られるものと思っていた。ところが予想に反し、スマートフォンの留守番機能から聞こえてくる馬場町長の肉声は極めて好意的なものだった。
「実は新聞の連載記事を読んでいましてね」と電話を折り返すと馬場町長は明るい声で私に言った。「鈴木新聞舗を舞台にした『新聞舗の春』。いやいや、震災後いろいろなタイプの記者さんにお目に掛かりましたが、新聞配達までなさって記事を書かれた方は初めてでした。記事の内容も素晴らしく――というのは当事者である首長としてはいささか無責任に聞こえるかもしれませんが――浪江町の現状がそのままの形で記されていて、町政を預かる者としては心から感謝しておったところなのです」
「それでは口述筆記については……」と私は恐る恐る電話越しに尋ねた。
「ええ、結構です」と馬場町長は言った。そして少し言い淀んだ後、こう付け加えた。「ただし、一つだけ条件があります」
「条件?」
「はい」と馬場町長は意図的に口調を改めて言った。「私は今も現職の首長です。発言の内容が周囲や議会に影響を及ぼさぬよう、掲載については私が許可するか、万一のことがあった場合に、という条件でお願いできませんでしょうか――」
*
馬場町長への初めての口述筆記は2018年4月6日、浪江町中心部にある町長の自宅で行われた。
取材の直前、私は上司である担当デスクと取材の進め方についてかなり念入りな打ち合わせを持った。馬場町長との事前のやりとりにより口述筆記は全部で10回から15回、話が外部に漏れないよう自宅で約1年間掛けて実施することになっていた。加えて、町長からは「内容の掲載については私が許可するか、万一のことがあった後にして欲しい」との条件が付けられていた。新聞業界では通常、事実は確認が取れ次第、可能な限り速やかに報道することを是としている。町長の要望はそれらの職業的なルールに逸脱する可能性を孕んでいた。
もう一つ、馬場町長自身の健康問題があった。町長はその半年前から入退院を繰り返し、長く町長室を留守にしていた。町役場側による病名の説明は「腸閉塞」。私は「新聞舗の春」の取材当時から再三インタビューを申し込んでいたが、馬場町長は――というよりは町の総務課は――その取材要請に応じなかっただけでなく、福島県沿岸部の各首長たちが恒例として毎年3月に実施している各市町村内の復興状況を全国に発信するための報道各社のインタビューについてもすべてキャンセルし、代理で副町長がインタビューを受けるという異例の対応でしのいでいた。私と担当デスクは途中で馬場町長の体調が悪化して取材が中断されることも想定し、通常の口述筆記で採用している自らの生い立ちを幼少期から振り返ってもらう手法ではなく、馬場町長の人生が最も激しく揺れ動いた震災直後の場面から記憶を辿ってもらうことにしていた。
当日の午前中、馬場町長は7年ぶりに町内で授業を再開させる「なみえ創成小中学校」の開校式に出席した。久しぶりの公務にあたり、いつ病状が急変しても対処できるよう、町の保健職員が見守る中での出席だった。
壇上では次のような祝辞を述べた。
「我が故郷・浪江町についに子どもたちの笑い声が戻ってきました。嬉しくて仕方がありません。今日は記念すべき浪江町の復興の、大きな、大きな第一歩です」
入学した児童生徒の数は小中学校を合わせてわずか10人。それでも馬場町長は余程嬉しかったのだろう、式典後、報道陣に囲まれると「我々にとっては(学校に通ってくれる)児童や生徒の数にそれほど意味はありません。子どもたちがこの町に戻ってきてくれた。その事実こそが大きいのです」と目を細めて宣言していた。
午後2時、私は鈴木新聞舗に立ち寄って店主の鈴木裕次郎さんと近くの定食屋で一緒に焼き肉定食を食べてから、馬場町長の自宅に徒歩で向かった。インターホンを押すと「どうぞ」という夫人の柔らかな声が内側から聞こえ、そのまま居間へと通された。避難指示解除後に建てられた新築らしく、庭には植えられたばかりの芝生が春の日差しを浴びて湖面のようにきらめき、外には真新しい電気自動車が停められていた。
穏やかな日差しが差し込むリビングで、馬場町長は青と白のチェック柄の普段着を着込み、ゆったりと栗色のダイニングチェアに腰掛けていた。
痩せている――。
それが私の第一印象だった。午前中の式典ではスーツを着ていたので目立たなかったが、柔らかな素材の普段着に身を包んで腰を下ろしている馬場町長は――まるで朽ち果ててる直前のイチョウの木のように――一回りも二回りも小さく、水分を失っているように私の目に映った。
私は町長と向き合う形でダイニングチェアに座った。「何か温かいものでもお飲みになりますか?」と馬場町長に聞かれたので、私は「それではお茶をお願いいたします」と近くにいた夫人に求めた。
馬場町長は自宅で過ごしているせいか、非常にリラックスしているように見えた。原発事故の最前線で陣頭指揮を執った「闘う町長」の険しさは影を潜め、どこか定年後に自宅の庭で園芸を楽しんでいる好々爺のような麗(うら)らかさを身にまとっている。
雑談が一段落すると、馬場町長は「先日言い忘れてしまったのですが、実はもう一つだけお願いがあるのです」と思い出したように私に言った。「それはつまり、確認についてです。これから私がお話しすることについてはどうか、しっかりと裏付けを取ってから記事にして頂きたいのです。私は震災直後の出来事についてはわりと鮮明に記憶が残っている方だと思うのですが、それでもこの歳ですから、若干記憶が薄れてしまっていたり、あるいは私の勘違いだったりすることがあるかもしれません。私や浪江町の経験を後世に残して頂く以上、私の記憶違いで他の方に迷惑が掛かったり、誤った事実が史実として伝わったりしないよう、できるだけ複数の方に事実関係をお確かめになった上で、記事をお書きになって頂きたいのです」
その申し出については議論の必要はなさそうだった。私も職業記者である以上、町長本人の発言とは言え、事実関係の裏付けなしでは記事にできない。「もちろんです。お伺いした内容についてはしっかりと裏付け取材をした後で記事化することをお約束いたします」と私は告げた。
馬場町長は表情を変えずに頷いた。そして、別室にいた夫人を呼び寄せ、自分と私のお茶を替えさせると、再度、掲載についての条件(自分が許可するか、万一のことがあった後に掲載するという約束)を私に向かって確認した。
「そちらも上司と確認済みです。