東日本大震災の被災地で行政による伝承施設が相次いで建設されるなか、民間人の手で施設を運営し、震災を伝え続けていこうとする人たちがいる。2021年3月、福島県いわき市の老舗温泉旅館「古滝屋(ふるたきや)」の一室に、私設の「原子力災害考証館」を開設した里見喜生さんもその一人だ。多大な資金や時間がかかる取り組みを、なぜ民間で行うのか。里見さんは「原発被災地には事故の被害者だけでなく、原発行政を推し進めた役所や東電に勤務する人も身近に暮らしているため、事故について語りにくい環境がある。自分たちが見た事実を、ここで暮らす一市民として伝えていく施設があってもいいと思った」と話す。(三浦英之)
古くから温泉文化が根付くいわき湯本温泉
三浦 最初に、この「いわき湯本温泉」の歴史について、教えていただけますでしょうか。
里見 いわき湯本温泉は福島県沿岸部の南端にあり、約1300年の歴史がある古い温泉地です。古滝屋が1695年に創業した当時、関東から東北にかけての太平洋岸では唯一の自噴する湯つぼだったため、田植えが終わったあと、各地から人が集まっていたそうです。
ところが19世紀末から常磐炭田の開発が進むと、炭鉱夫が集まるいわゆる「遊興地」に変わっていきました。そうすると、いままで湯治に来てゆっくりしたいという方々が、来なくなってしまったと聞いています。炭鉱夫というのは、非常にリスクを伴う仕事でもありますし、いつ命を落とすかわかりません。宵越しのお金を残すな、という風潮があり、ほぼ毎日のように、湯本温泉の飲み屋街は、たくさんの鉱夫でにぎわっていたそうです。
三浦 炭鉱が閉じたあと、現在のように観光地として発展していく様子は、常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)を描いた映画『フラガール』(2006年)でも描かれていますね。
震災で変わってしまった街
三浦 2011年の震災のときには、古滝屋はどのような状況だったのでしょうか。
里見 3月11日は金曜日で、200人ほどの予約で満室でした。チェックインが始まる前に地震が起きて、電気、ガス、水道、電話、すべてがストップするなか、夕方から夜にかけて最終的に50人の方が、古滝屋までいらしてくださいました。
ここは、海岸から10キロほど離れていますので、津波の被害はなかったのですが、テレビも電話も使えず、ラジオの情報も混乱していましたので、とにかく状況がつかめませんでした。震災の翌日にも、みんな大変な状況だったにもかかわらず、ほぼ全員のスタッフが出社してくれました。12日に最後のお客様をお送りしたあと、電話もなかなか使えないなかで、予約の方々へお断りの連絡をしたり、地震で割れてしまった食器やガラスなどを掃除したりしていました。
3月12日には、東京電力福島第一原子力発電所の1号機が水素爆発を起こしましたが、原発はここから南に50キロほど離れていて、自治体等からの連絡もなかったので、翌日の新聞で初めて知りました。12日以降、避難指示によって双葉郡からこのいわき市に約2万3000人が避難してきたと聞いています。
三浦 僕が震災直後にいわき湯本温泉を訪れたときには、ヘルメットと作業服を着た原発の復旧作業員でごった返していました。旅館やホテルの窓枠にタオルがぶら下げられていたり、洗濯機の前に長い列ができていたりして、温泉保養地だった以前の風景とはまるで違った光景が広がっていました。当時、震災復旧工事などに国から莫大な予算が出ており、長期に滞在する作業員の方々は、あるいは旅館業というビジネス面から考えれば、安定的な収入が得られる「いいお客様」だったのではないかと思います。ところが、古滝屋さんはそのような環境の中でも、作業員ではなく、全国から訪れるボランティアを積極的に受け入れていたと聞いて、驚きました。