私事で恐縮だが、2022年1月に『帰れない村 福島県浪江町「DASH」村の10年』(集英社文庫)という本を上梓する。2021年度の「LINEジャーナリズム賞」を受賞したもので、原発事故の放射能汚染によって震災11年が過ぎた今でも、住民が1人も戻れていない福島県浪江町津島地区(旧津島村)に3年半通い続けたルポルタージュだ。そこはかつて、アイドルグループTOKIOが農業体験を続けた、「DASH村」があった場所でもある。故郷を奪われた人々は今、どんな気持ちで「帰れない村」を見つめているのか。主婦の石井ひろみさんの自宅への一時立ち入りに同行した。(三浦英之)
津島の旧家へ嫁ぎ、伯父は浪江町長に
三浦 福島県浪江町の山間部にある津島地区は、合併前の「旧津島村」のコミュニティが色濃く残っていて、同じ集落内であれば「隣家の冷蔵庫の中もわかる」と言われるほど、約1400人の住民が一つの家族のように生活していた地域でした。石井さんはその津島地区の中でも、数百年の歴史を持つ旧家の大屋敷に50年ほど前、嫁いでこられたんですよね。
石井 私は北海道で生まれて、親の転勤で九州、関西、関東を転々としました。学生時代に、帝国ホテルの列車食堂でアルバイトをしていて、そこで夫と知り合い、1971年にこの家へ嫁いできました。ですから、津島に嫁いでから50年がたったことになります。
嫁いだ当時は、夫の伯父夫婦と両親、私たち夫婦、それから当時中学生だった夫の弟の7人で暮らしていました。父は、満洲でマラリアに罹患し、当時の食糧不足による栄養失調もあって、終戦後全盲になってしまいました。伯父は、町の助役を経て1975年から1983年まで浪江町長を務めることになります。
私は横浜から津島に嫁いできて初めて家事をやりだしたので、田舎っていうのはこんなに大変なんだとカルチャーショックを受けました。毎朝5時に起きて、まず竈(かまど)に火を入れ、掃除をして、ご飯の用意をして、とにかく毎日必死でした。特に伯父の選挙期間中は、毎日2時間しか睡眠時間が取れない生活が2週間も続くのです。朝は4時には起きてご飯を炊き、お湯を沸かし、部屋を暖め、選挙運動に出かける人たちに持たせるおにぎりを地域の女性の協力を得て作りました。そして夜中の12時すぎに選挙運動から戻ってくる人もいたので晩ご飯を用意して、翌日に備えて家をきれいに掃除するという日々です。
嫁いでから震災までの40年間、ここが自分の死に場所になるんだと思って、やらなければいけないことを必死にこなしながら、自分の居場所を確保しようと努めてきました。
日本の原発は安全だと信じていた
三浦 そんな必死に生きてきた津島で、福島第一原発で事故が起きたとき、どのようなことを思いましたか。
石井 まさか信じられない、という思いでしたね。
かつて地元の公民館の館長をしていた私は、津島の子どもたちの夏季研修を毎年いわき市で行っていました。当時、いわき市のNPOがチェルノブイリ原発事故(1986年)の影響で小児がんを発症している子どもたちを転地療養で受け入れており、彼らと一緒に筏(いかだ)を作ったり、カレーライスを作ったりと交流したことがあります。
その帰りのバスの中で津島の子どもたちに、「福島には10基も原発があるから、万一福島で事故が起きたら、私たちもベラルーシの子たちと同じような境遇になることもありうる」という話をしたことがあるんです。
そうすると、バスのガイドさんに「日本の原発は安全だから、子どもたちにそんなことを言わないでください」と言われました。原発の構造などを教える東京電力の研修センターにも何度か足を運んだことがありましたが、そこでも必ず、「原発は何重にも安全を担保されているから、絶対に事故は起きません」と教えられるんです。私も子どもたちにチェルノブイリの話をしながらも、どこかで「日本では原発事故は起きない」と信じていました。