悲しみと向き合う「ケア」の必要性
三浦 僕が震災直後に被災地に入って一番心が傷つけられたのは、子どもの遺体を見たことでした。自分の娘と同じ年齢くらいの女の子が泥に顔をうずめていたり、男の子が自転車にまたがって倒れていたりするのを見て、それが今でも夢の中に出てきます。目にした遺体の数としては、フィリピンの台風取材のときのほうが多かったし、アフリカに赴任したときには虐殺現場も取材しました。ところが、フィリピンとかアフリカで見た遺体は、なぜか夢には出てこない。自分としては、アフリカの人だから、フィリピンの人だから、と区別などしていないはずなのに、いつも夢の中で思い出されてくるのは日本人の遺体なんです。自分にとっては、これは震災を忘れるなという錨(いかり)の役割を果たしてくれていると思っているのですが、一方で、はたしていつまでこの十字架を背負っていけばいいのだろうかと深く思い悩むときが正直あります。
蟻塚 記憶というのは消せないので、ずっと残るでしょうね。ただ三浦さんの場合は、苦しい現在進行形の「熱い記憶」ではなく、新聞記者だから一歩距離を置いて「冷えた記憶」になっているので、フラッシュバックして「今」に侵入してくるということはないと思います。三浦さんにとって子どもの姿が、「日本の風景」だったんでしょうね。例えば、原発事故で避難した津島地区の人たちも、故郷の山が心を支えてくれていた。私たちは日本の文化の中で生きてきて、日本の文化はいつも自分たちの心を守ってくれていた。その一部を失うのは、自分が壊れてしまうという感覚なのでしょうね。
三浦 アメリカでは、ベトナム戦争のときに、従軍していた多くの新聞記者が、帰国後PTSDになって倒れてしまいました。そこで、戦地などの危険地帯の取材をした人は、精神科医に話したり、あるいは家族の中でいろいろコミュニケーションを持ったりする一連のプログラムを受けてから復帰させるという制度が生まれました。ところが、日本の新聞記者の場合はこれまで幸いにもそれほど多くの遺体を見る機会がなかったので、危険地帯へ行く前の研修もないし、帰った後のケアもない。そしてまたすぐに次の現場に放り込まれるんです。今後も日本で豪雨や地震などの災害が相次ぐことが予想される中で、取材する側も遺体を見たり、悲しむ遺族に接したりする可能性が高い。そうしたときになんらかの記者の心を守るケアのプログラムが必要だと思います。
蟻塚 自衛隊のイラク派兵では、その後50人以上が自殺したという報道もありましたね。そもそも、実は日本の精神医学界自体が、トラウマを軽視しているという現状があります。アメリカのトラウマ医学の権威であるベッセル・ヴァン・デア・コークは、「トラウマを診る医者は必ず社会的な文脈にぶつかるから、そこから逃げちゃいけない」と言う。ところが、日本の医者は社会的な問題にかかわることから逃げてしまうので、トラウマ医学が発展しないんです。
三浦 原発被災地では、本当に思っていることが言えなかったり、周囲に流されてしまったりする状況があると思います。しかし、そうした中で、蟻塚さんのように、在野で被災者の方々のトラウマと向き合っている方がいることは、本当に心強く思います。今、日本の社会に求められているのは、政治家や評論家が好んで口にするきれいなだけの理想論ではなく、現場に根ざし、あるいは地べたを這い回って取材した、やぼったいけれど重みのある「事実」の提示なんだと思う。その事実を踏まえた上で、これからどうしていけばいいのか、みんなで考えていくことが必要なんだと感じています。