三浦 津島地区では、集落が一つの家族のようになっていて、隣の家の冷蔵庫の中までわかるというほど住民の間に親密な関係が築かれていました。津島地区にあった唯一の診療所でずっと勤めていた看護師は、患者からの電話で「おい、俺だけど」という声を聞いて、それが誰だかわかるそうです。ところが、避難先の福島市や二本松市に行くと、顔馴染みではない医師や看護師に対して、患者は自分の症状すらうまく伝えることができない。そうするとその津島の看護師を呼んで、俺の症状を伝えてくれと頼むそうです。避難先の老人会にも入れなかったり、一緒にお茶を飲んでも誰も話しかけてくれない。そして、狭い部屋でずっとひきこもっているという方を見ると、本当に心が痛みます。
蟻塚 先ほど述べた津島地区の調査では、重症のうつ病状態についても調べました。避難先が県内の場合は、約23%の人が重症のうつ病状態と見られるのに対し、避難先が県外の場合は、その割合が約40%に上がりました。津島地区は、60歳以上の高齢者が90%を占めています。伝統的な地域文化の中で生きてきた人たちが、県外の関東や関西に移住して大きなカルチャーショックを受けたことが要因でしょう。自然災害の場合は、インフラを復旧することが復興の目安となりますが、人災である原発事故では、加害者が特定されて、彼らが被害者に謝罪して、現状に復旧させるというプロセスが必要です。人々のトラウマは、謝罪の有無によって、癒やされるか傷つくか大きく変わります。やはりきちんとした謝罪、弁償、そういうことが大事だと思いますね。
福島を語ることの難しさ
三浦 「がんばろう福島」や「がんばろう東北」という言葉は、震災直後には被災した方々を勇気づけられる効果が確かにありました。でも一方で、それを長く使い続けてきた弊害もあるんじゃないかと思います。この悲惨な状況の中で、前向きになれない人は確実にいます。今、少しでも福島で原発のことが怖いとか、放射能が不安だと言ったら、すぐ「放射脳」だと言われてしまうでしょう? それがゆえに、あまり原発の話をしなくなっていますよね。
蟻塚 実は沖縄でも同じような状況でした。私たちが2010年に沖縄県内で多くの人が戦争体験によってPTSDになっていることを発表したとき、沖縄社会では非常に驚かれました。沖縄戦によるPTSDの方が集まって話し合いをすると、「まさか自分と同じ体験を別の人がしているとは思わなかった」と言うんです。ところが今では、毎週のように沖縄の新聞紙上で沖縄戦の体験を語る人がいます。彼らはマイノリティだと思って今まで沖縄戦の体験を隠して生きてきたけれども、沖縄の社会の中でマジョリティだったと気がついた。そうすると、沖縄戦のトラウマを語ることができるようになったのです。
ところが、福島では、原発による放射能汚染が怖いということを語ることは、いまだマイノリティです。放射能のことを言うと、福島県内では「風評加害」なんて言われる。本当に人間の心を大事にするのなら、不安というのはなくてはならないものです。不安というのは、より大きな危険から身を守るための、いわば黄色信号なんです。「安全なんだから不安を持つのは間違いだ」などと乱暴なことを言う精神科医がいますが、それは教科書的なイロハからも間違っている。自分が抱えている不安や震災の体験をもっと語り合える場をつくる必要があります。
三浦 この国には放射能汚染で人が入れない国土があり、自宅に帰れない人たちがまだ本当にたくさん残されている。その中で我々はそれを見ないふりをして生活していますよね。たった10年で、これほどまでに社会が関心を失ってしまっていることに、憤りというか恐怖を感じます。
蟻塚 沖縄でも、福島でもそうですが、日本の社会というのは困ったときに困っている人を切り捨てます。さらに、日本人というのは、切り捨てられた弱い人をまたいじめるんです。
三浦 そうですね。沖縄の人もこれまで長らく差別を受けてきました。同じように福島で原発事故が起きたときにも、いろいろな人が差別を受けて、つらい思いをしているさまを、僕は取材で目の当たりにしました。この国の政府は、戦争や原発事故などによる被害を見せないようにするだけではなくて、それによって被害を受けた人を隠し、排除することで、自らの責任を免れようとする構造があるように感じます。