性暴力には権利も自由もない
今回、女子高生を「売春する人」と「一般の人」とに分けて考えてしまった生徒たちは、自分が女性を差別する側に立っていることや、自分がそうならなければ他の女性の権利が侵害されてもいいという考え方をしているということには無自覚だった。私が「誰かの犠牲の上に、自分の幸せを築くことはできますか?」と、発表を担当した女子生徒に問いかけると、彼女は「犠牲ではなく仕事の内容をわかって自分の意思で来た人もいる。やりたくてやっている人もいるはずだ」と答えた。
確かにそうかもしれない。では、本人による積極的な選択だ、自分の意思だといえば、性暴力を誰かが引き受けるようなことがあっていいのか。「自由意志の奴隷」はありなのか、と生徒たちに問いかけた。「売る・売らない」論で語ることが、これまでも問題の本質を見えなくさせてきた。
人権とは、誰もが平等に権利を有するということだ。が、自分の利益のために誰かを支配・搾取・利用するようなことを「権利」として主張する人の声が大きくなっていることを、私は感じている。彼女たちも「男性が性暴力を振るう権利や自由」「女性が性暴力を引き受ける権利や自由」を主張していた。
そうではなく、誰もが暴力や搾取に行きつかなくてよい選択肢を持てる状態を目指すことこそ、人権侵害のない社会づくりにつながるのではないだろうか。自己責任論に溢れる社会の中で育ち、自分ごととして捉えたり、他者の痛みを想像したりすることのできない人は増えているのかもしれない。
いつの時代にも、支配の関係性の中に性暴力が起きている。「暴力」を「権利」として振りかざそうとする人たちの声にかき消されないように、伝え続けることは時に苦しい。痛みと怒りを共有できる仲間とともに、粘り強く声を上げ続けたい。