何が差別で、何が平等なのか?
JRや地下鉄の女性専用車両設置は男性差別であると主張し、わざと女性専用車両に乗り込み、嫌がらせを続ける男性たちがいる。彼らは「ここは女性専用ですよ」などと注意した女性乗客らに対し、「男性が乗ってはいけないという法的根拠はない」と言い張って謝罪を求めたり、「肩を触った! 痴漢だ!」と騒いだり、逆に降車を迫ったり、怖がったり気持ち悪がったりする姿を撮影してネットでさらしたりしている。
つい先日の2018年2月16日にも、東京メトロ千代田線の女性専用車両に複数の男性が乗り込んで居座り、駅員の降車要請に応じなかったため電車が遅れた――というニュースが報じられた(2月16日付、朝日新聞デジタル「女性専用車両に男性3人居座り メトロ千代田線遅れる」)。その翌週には、この男性らのグループが女性専用車両反対の街宣活動をJR渋谷駅前で始めたところ、彼らの主張や行為に怒った人々が集まってカウンター行動を起こし、警察官も出動する騒ぎになったという(2月24日付、弁護士ドットコム「『女性専用車両』反対派とカウンターが渋谷駅前で衝突、『帰れ』コール響き騒然」)。
この時のカウンター側には多くの男性も参加したとツイッターなどで知り、私自身は心強く思った。しかし私は「女性専用車両は男性への性差別」という意見に同調する声が主にネットの書き込みなどで高まることで、中高生世代にも浸透し始めていると感じている。
女性専用車両への攻撃を続ける男性たちは「差別ネットワーク」と名のり、メンバーのSNSには「すべての不当な差別に反対」「差別と思われていない差別にスポットをあて、反対運動を展開中!」「特にいまの日本に蔓延する男性差別。男性冷遇、男性軽視、男性排除…まずはこれらを糾弾・啓発してまいります!」「『女性専用車両』は『痴漢対策』ではなく『男性対策である』」などと書いてある。
こうした主張に触れた時、「差別はよくない」と教えられながら、何が「差別」となるのかを理解したり、暴力の構造を社会的状況から読み解いたりする力を身に付けられずに育った子どもたちが「そうだ、これは男性への差別だ」と思ってしまうのは、仕方がないことだと思う。彼らの主張や行動の何が間違っているのか、何が差別・暴力であり、対等や平等とは何なのか、子どもたちに伝えていく責任が大人にあると思う。
痴漢の被害に遭うのは女性ばかりではないが、加害者の多くは男性で、被害者の多くは女性であるという現状から、女性たちを性暴力から守り、安心して電車に乗れるよう2000年代の初頭に京王電鉄京王線などで女性専用車両が設けられた。いわば女性への性暴力があふれる中での、一つの緊急対策だ。そうと知りながら「女性優遇は許せない」と言って乗り込んでくる男性を、居合わせた女性乗客が「怖い」「気持ち悪い」と感じるのは当然だと私は思うが、以前、買春者を擁護する男性のことを私が「キモイ」と言ったら「男性を差別している」「男性憎悪がひどい」などとネットで批判されたことがあった。
私は「気持ち悪い」と感じることは大切だと思う。なぜならそれは、自分の安心や安全が守られなかったり、人権が侵害されたりするかもしれない時のサインだからだ。しかし、そうした感覚を育むこともかなわない中高生が、少なくないことも感じている。
男なんてそんなものという思い
中高生時代の私も、その一人だったかもしれない。
登校時の満員電車で痴漢に遭うことや、通学路で露出狂に遭うことは日常茶飯事で、数えきれないほどだった。やめてほしいと思っても恐怖で声が上げられず、周りに居合わせた大人たちも誰も助けてくれなかった。
毎日のように被害に遭うので、次こそは反撃してやろうと思っていても、いざとなると「殺されるのではないか?」「被害を訴えても信じてもらえないのではないか?」「大ごとになるのではないか?」などと考えて、体が固まってしまった。痴漢を捕まえた女友達がかっこよく見えると同時に、そうできない自分を責めていた。
一度、友達や後輩が同じ目に遭わないようにと、警察に「今、そこに露出狂がいる」と言いに行ったことがあった。が、1時間も部屋に閉じ込められて事情聴取され、その後でパトカーに乗っての犯人探しに協力させられ、学校にも連絡された。遊びの約束をしていたのに行けなくなってしまい、結局「パトロールを強化する」ということだけ言われて嫌な思いをし、「自分の気持ちや自由は守られないんだ」と感じた経験がある。
私が通っていた女子校では、「いつ、どこそこに痴漢が出たので気を付けるように」という注意喚起が毎週のようにあり、被害に遭うのは自分に隙があるからなんだ、短いスカートをはいたり夜道を歩くからなんだ、自分たちの不注意によるものなんだ、と思い込まされていた。電車の中で男性からジロジロと脚や胸を見られることもよくあり、そんな視線を気にせず胸元の開いたファッションができる友達がうらやましくて、そうできない自分を弱いとも思っていた。
当時の私は、家が安息できる場所ではなかったため深夜の街を徘徊する生活を送っていたが、つるんでいたグループ内でも男子が女子を、まるでモノでも扱うかのように性的な玩具にすることは日常茶飯事だった。
そんな中で、私は「男なんてそんなものだ」と思うようにしていた。「胸を触られるぐらい、たいしたことではない」と暴力に対して開き直ったり、自分から「彼らのモノ」「性的に対象化された女子」といったふるまいをし、下ネタで喜ばせたり自虐ネタで笑いをとったり、彼らの機嫌をコントロールして身を守る術を14歳ぐらいのうちに身に付けていた。そこには、自分の意見を押し殺して父の言いなりになる母の姿を、家で見ていた影響もあると思う。
15歳の時、路上で見知らぬ人に襲われ、突然目隠しをされて車に連れ込まれそうになったことがあった。そのことを男友達に話したら「本当かあ?」と疑われてショックだったこともあるし、夜道を歩くのを怖がっていると「気にしすぎ」「自意識過剰」などと男女問わず言われることもあった。そんな経験を繰り返すうち、誰かに狙われているのではないかと人間不信になったり、外に出るのが怖くなったり、人とすれ違ったり背後で足音がしたりした時にすくんでしまう時期もあった(今でもそれは少し残っているが……)。
普段からつるんでいる仲間なら、彼らがどんなタイミングでどんな遊びをして楽しもうとするか、二人きりになると危険なのは誰か、酔っ払ったら危険なのは誰か、ということがわかっている。だから女性への性暴力があふれるこのような社会の中では、一人になって見知らぬ男性に声を掛けられるよりは、彼らと居た方がましだと思っていたのだ。
差別や暴力に気付けない社会
そんな私を見て「自分の意思で好きでやっているんだろう」と思い込み、もっとひどいことをしてきたり、「軽い女だ」と軽蔑したりした人もいただろう。本当は私も傷付いていたが、そこを認めてしまうと生きているのがつらくなるので、気にしていないような素振りをしていた。しかしそうするうちに、どんどん感覚は麻痺して、自分の中での「安全」の基準も下がっていった。
例えば16歳の時、王様ゲームで男子とキスをしなければならなくなった。その時に相手が、直接唇が当たらないように気遣って、おしぼりの袋をはさんでくれたことにとてつもなく感謝したことがある。今、関わっている女の子たちの中にも「あのスカウトは風俗やAVの仕事は紹介しないから優しいし信頼できる」と言う子がいるが、自分を大切に扱ってくれていると感じられる関係性が他にない中では、搾取しようと近づいてくる相手でさえ「いい人」に思えることがあるのだ。
本人が嫌がっているように見えるかどうかにかかわらず、「玩具扱いして遊ぶのはもうやめよう」と言ってくれる男子がいたらよかった、と今は思う。が、「女で遊ぶ」ことに反対するような男子は、仲間から「男ではない」「つまらない」「ノリが悪い、洒落のわからないやつ」というような扱いを受けることが目に見えた状況だった。
そのため当時、「本当に大丈夫なのかな?」「自分はこういうの、嫌だな」と思っていた男子は席を外したり、他の仲間がいないところで私に声を掛けたりすることくらいしかできなかっただろう。しかし、その場に居た多くの男女は笑っていたし、それを差別や暴力だとは誰も思っていなかったと思う。
「男性に性的にモノ化され、消費されることは、女性として価値があること」であるかのような、そして女性もそれを喜んでいるかのようなシチュエーションは、この時代でもバラエティーやドラマ、アニメなどによく使われ、子どもたちも日々目にしている。
この記事を書いている今も、あるテレビ番組で女性タレントが脚から腰までをローアングルからなめ回すように映され、彼女より年上の女性アナウンサーが傍で「深夜番組みたいないやらしいアングルですね。