だから、人はいつも誰かを罰したいという誘引を持つことになります。そうでないと、この世界の道徳的規準が失われ、自分がどのように行動したらよいか、何を指針としたらよいか、わからなくなってしまうからです。この理論を適用するならば、自分が理不尽な思いをしているという感覚こそが、他者に対するヘイトを生むことになります。そして、自分より弱い他人に罰を与えることで、自分の正しさと自分が理不尽な環境にあることを証明しようとするのです。
ヘイトクライムが増発している現代では、もはや現実社会が人々にとっての公正を約束していないといえるのかもしれません。憎しみを抱くことを最後の最後まで拒否していたユベールは、映画の最後で驚くべき行動をとりますが、それは世界のどうしようもない理不尽さ示すことになります。
『女は二度決断する』――人はわかり合えない
『憎しみ』の最後には、こんなナレーションが流れます――「これは崩壊した社会の物語だ。社会は崩壊しながら少しずつ絶え間なくメッセージを投げかける。ここまでは大丈夫だ。だが、問題は落下ではなく着地なのだ」。
この「着地」に失敗し続けている社会を残酷に描くのは、ドイツの多民族社会を描き続け、世界の三大映画祭で受賞歴を持つ、自身もトルコ系のファティ・アキン監督『女は二度決断する』(2017年)です。勇ましい邦語タイトルがつけられていますが、ドイツ語の原題は現在のあてどないヘイトクライムの性質を表すかのような「Aus dem Nichts(無から)」、となっています。
名女優ダイアン・クルーガー演じる主人公のカティヤは、トルコ系のシェケルジと服役中に結婚、その後、自営業を営みながら、幸せな家庭を築きます。しかしハンブルクのトルコ人街を狙った爆弾テロで、最愛の夫と子どもを亡くすに至ります。テロはもはやマイノリティがマジョリティに対して行うものではなくなりました。
爆弾テロの実行犯はギリシャのネオナチ政党「黄金の夜明け」(国会に議席を持つ実在の政党)の極右思想にかぶれた若いドイツ人夫婦であることが判明し、裁判が始まります。ところが、爆弾テロは状況証拠しかなく、カティヤ自身の目撃証言も信用されなかったため、その若い夫婦は無罪判決を勝ち取ります。
精神的ダメージから麻薬を服用し、自殺するところまで追い詰められていたカティヤは、ギリシャに逃れた犯人の夫婦たちに復讐を果たそうと後を追います。彼女は夫と子どもが殺された爆弾と同じ手製爆弾の作成方法をネットで入手し、夫婦が暮らすキャンピングカーに仕掛けます。作品のラスト10分の緊張感はすさまじいものがありますが、彼女はキャンピングカーにとまった小鳥をみて、爆弾を仕掛けるのをやめます。復讐を諦めかけたかにみえる時、事件以来止まっていた生理が彼女に訪れます。そしてカティヤは、再びキャンピングカーに爆弾を仕掛け、犯人たちを巻き添えにして自死します。小動物に生命の尊さをみて殺害をやめるのも、生理がきたことで殺害に至るのも、同じ程度にリアリティがあります。カティヤは、人を殺すことの意味合いを自ら引き受けるのです。
リストカットなどの自傷行為は、極度のストレスに起因しますが、こうしたストレスは他人への攻撃性となって表れることもあります。自分を取り巻く不条理に耐えられず、自分を愛することのできない者は、他人を否定することで、その葛藤を処理しようとするためです。
だからもしヘイトを本当になくしたいのであれば、偏見や差別をなくせと言い募るだけではなく、自分自身を肯定できるような社会を作らなければならない――そんな手掛かりを与えてくれるのが、次に紹介する映画です。
『判決、ふたつの希望』――和解への道
民族のるつぼといわれる国や地域は世界でたくさんありますが、その代表格の一つが中東にあるレバノンです。同国は、第一次世界大戦中、オスマン帝国の領土分割を決めたイギリス、フランス、ロシアによるサイクス・ピコ協定によってフランス支配下に入った地域でしたが、第二次世界大戦でフランスがナチス・ドイツに占領され、独立を果たしました。宗教的な禁忌も少なく、投資バブルに沸いている首都ベイルートは、今でこそ目覚ましい発展を遂げていますが、戦後のイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の対立から、同国はシリアとイスラエル、さらにアメリカとソ連との代理戦争の地となり、「第五次中東戦争」とも呼ばれた、1970年代半ばからの20年近くにおよぶ内戦を経験します。
内戦がかくも長く続いたのは、イスラエル対パレスチナという構図に加えて、東西冷戦、さらに細かく宗派に分かれたイスラム教徒とキリスト教徒の対立という、異なりつつも重複する分断線があったためです。こうした複雑な対立構図は映画の格好の素材ともなり、「中東のパリ」と呼ばれた首都ベイルートは『デルタ・フォース』(1986年)、『スパイ・ゲーム』(2001年)など、数々のスパイ、アクション映画の舞台ともなりました。
このレバノンの歴史を背景に、キリスト教徒とイスラム教徒による互いの憎しみから和解への道を描くのが、レバノン人のジアド・ドゥエイリ監督『判決、ふたつの希望』(2017年)です。
この作品はキリスト教徒でパレスチナ人に敵意を持つ自動車工トニーと、パレスチナ難民で工事監督を務めるヤーセルの二人の中年男性が主人公です。原題に『The Insult』(侮蔑)とあるように、映画は些細ないざこざから、ヤーセルがトニーに対して「クズ野郎」と罵るところから展開していきます。トニーが謝罪を求めてもヤーセルが頑なに拒否したため、トニーは「シャロン(パレスチナ強硬派だった元イスラエル首相――註)に殺されてればな」と罵り、これを聞いたヤーセルが思わず彼に拳をあげます。
ヤーセル自らが出頭し、この暴力沙汰は裁判にかけられますが、ヤーセルがトニーの侮蔑の言葉、すなわちなぜ彼を殴ったのかの理由をなぜか最後まで明かさなかったため、訴えは棄却されます。その後、殴られた傷を押して仕事に勤しんだこともあって、症状を悪化させたトニーはヤーセルを訴え、舞台は再び法廷に戻ります。
この時トニーが弁護士として雇ったのが、「弱者救済はブームだ」とのたまう、パレスチナ人に批判的な極右思想を持った弁護士でした。彼は「パレスチナ人の絶望を語る時、彼らだけが虐げられた人のようだ。アルメニア人、クルド人、ゲイは? 権利を奪われても殴り合いなどしない。あなたが祖国を失った難民だからといって暴力の言い訳にはならない」と、「新しいレイシズム」の論法で正義を求めます。ヤーセルにも(実はトニーの弁護士と因縁浅からぬ)人権派弁護士が付き、トニーの言こそが「ヘイトクライムに値する」と主張し、法廷はあたかもレバノンの歴史を象徴するような代理戦争の様相を呈することになります。
(*1)
Institute for the Study of National Policy and Interethnic Relations et al., Xenophobia, Radicalism, and Hate Crime in Europe, 2018
(*2)
McDevitt, Levin & Bennett “Hate Crime Offenders” 2002