この作品で興味深いのは、異なるバックグラウンドを持ち、対照的にみえるトニーとヤーセルという人物が、実は多くの共通項を持っていることが示唆されていることです。二人ともプライドが高く、職人肌だけれども怒りっぽく、恐妻家で優柔不断な人物にみえます。物語が進むにつれて、トニーはマジョリティの中の弱者であり、ヤーセルはマイノリティの中の強者であることも次第に明らかになります。しかしこの二人の対立は法廷外に波及していき、大統領までが憂慮するまでの国内の民族的対立へと煽り立てられることで、事態は深刻なものになっていきます。
激化する民族的対立の中で、トニーは「政治を絡めるな」と自らの弁護士に異議を唱えます。彼がヤーセルを許せないのは、彼が自国に流入してきたパレスチナ難民だからではなく、何気ない侮蔑を発したにも係らず謝罪をしないからでした。トニーを罵って殴ったのが、たまたまパレスチナ人だったわけです。
終盤にさしかかって物語は、特定の民族に属するトニーとヤーセルではなく、個人の尊厳をかけた二人のせめぎ合いへと焦点が当たっていきます。思わぬ展開をみせる裁判でヤーセルは無罪を勝ち取りますが、最大の見せ場は、二人が民族的な立場ではなく、自分の個人としての感情を肯定することで、裁判によらない真の和解に至ることです。裁判沙汰となって社会が沸き立つことで、トニーもヤーセルも、当初自分が持っていた本当の感情が置き去りにされ、民族問題へと変化していってしまうことに嫌悪感を抱くようになっていきます。最終的にはヤーセルがトニーに自分を殴らせるという行為を通じて、二人の対立は和解へと昇華されることになります。
ここには、ヘイトから自由になる方法が暗示されています。すなわち、相手への敵意であろうが、怒りであろうが、自分の感情を素直に認めた上で、民族や人種といった個人の属性をその敵意の理由としないこと――それがまた自分を認めるということの意味であり、和解への道となるのではないでしょうか。ヘイトクライムやヘイトスピーチをなくすヒントは、意外と身近なところにあるのかもしれません。
(*1)
Institute for the Study of National Policy and Interethnic Relations et al., Xenophobia, Radicalism, and Hate Crime in Europe, 2018
(*2)
McDevitt, Levin & Bennett “Hate Crime Offenders” 2002