疎開する村人たちは、食糧を確保するためにやむを得ず店を襲撃したり、ドイツ軍戦闘機に掃射されるなど危険な目に遭ったりしながら、逃避し続けます。村民の安全を守ることに疲れ果てた村長は、難を逃れて妻にカナダに移住することを提案します――「もう国に十分貢献した。好きなところで静かに暮らしてもいいだろう」。
カリオン監督の母親が実際に経験したというこの大規模な疎開は、「1940年の大脱出」として歴史に記録されています。ナチスの侵略を受けて、ベルギー人、オランダ人、フランス人など、あわせて800万から1000万の人々が移動を余儀なくされました。
大脱出では数万人の子どもが孤児になったと記録されていますが、マックスは疎開の途中で村人たちとはぐれて教会に隠れていた時、偶然にも父親との再会を果たします。それまでフランス語で話すようにマックスに強制していたハンスですが、生き別れになることを避けることのできた2人は母語のドイツ語で会話を始めます。それは2人にとっての戦争、すなわち絶え間のない移動の時代が終わったことを意味するものでもありました。
『戦場のブラックボード』はふたつのことを問う作品です。ひとつは、移動しなければならない人にとって「故郷」が持つ意味です。ベルギーの名匠ダルデンヌ兄弟作品の常連役者であるオリヴィエ・グルメ扮する村長は、ドイツ軍のフランス支配が避けられないことを知って、疎開の途中で、自分たちの村に再び戻ることを決断します――「しっかり生きるためには故郷を離れないことだ」。他方で村民の中には、それでも南下を続けようとする者たちがいます。そこで、故郷すらないハンスとマックスは、互いを発見することで、故郷を一からつくり出そうとする人々として位置づけられます。
もうひとつは、人が強制的に移動させられることの苦難や惨めさは、国境に関係ないということです。今では「国内避難民」と呼ばれるようになりましたが、紛争や飢饉などによって住んでいた土地や愛着を持つ家族から離れる困難は、国境を越えるか否かではかることはできません。メルケルが遠い中東から難を逃れてきた人々を迎え入れなければならないと訴えた背景には、自分たちもまた故郷を失った難民・移民としての歴史と経験を持っていたことも関係しているはずです。
より道徳的な存在――『ディーパンの闘い』
ホスト社会から移民たちへ向けられる視線ではなく、移民がホスト社会をどのようにみるのかを描くのは、ジャック・オディアール監督『ディーパンの闘い』(2015年)です。高い評価を得たこの作品は、同年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞しています。
タイトルにあるディーパンとは、スリランカ人である主人公の名前、彼は難民として出国しやすいよう、見知らぬ女性ヤリニ、そして孤児となった女の子イラヤルとともに家族のごとく振る舞い、フランスへと無事脱出します。
嘘をつき通して難民として認定された彼は、公営団地の管理人の職をあてがわれます。ただ、団地の治安は悪く、一棟はギャングの巣窟と成り果てています。映画ではやや過剰な演出がされていますが、この連載で取り上げた『憎しみ』(マチュー・カソヴィッツ監督、1995年)でもみたように、フランスの郊外の公営団地のスラム化は、1980年代からフランス社会での大きな問題となっています。
フランス語のできないディーパンは、小学校で言葉を習得したイラヤルを頼りに、管理人としての業務に精を出します。ヤリニもギャングのリーダーの父親の家事手伝いとしてアルバイトをするようになります。是枝裕和監督の『そして父になる』(2013年)や『万引き家族』(2018年)のごとく、互いの愛情を確認しながら、彼らは徐々に本当の家族として、住民の中に溶け込んでいきます。
もっとも、ディーパンがたどり着いたフランスの団地は、安住の地ではありませんでした。ギャング同士の抗争をみたヤリニは彼に尋ねます。「昼間から発砲事件があるなんて何も思い出さないの?」――ここでスリランカとフランスは、パラレルに捉えられます。スリランカは2009年まで多数派のシンハラ人と少数派のタミル人との抗争が四半世紀にわたって続いていましたが、ディーパンはタミルの兵士として戦い、その過程で妻子を失うという経験を持つ人物であった事実も明らかにされます。
すなわち、内戦から逃れてきたディーパンが直面したのは、新たな紛争地帯でした。ただ、もはや逃れる先はありません。彼は敷地内に白線を引いて「発砲禁止区域」を自ら設定し、ギャング同士の銃撃戦に巻き込まれたヤリニを助けるために自らの身を投じ、自らの手でもって平和をつくり出そうとします。
この作品でフランス人のオディアール監督が問うのは、こういうことでしょう。自分たちの手で争いを鎮めることもできない私たちに、紛争地から逃れてきた人々を見下したり、差別したりする資格が本当にあるのか、自分たちが生きる境遇を何とか良くしようと献身する彼らの方がよほど道徳的な存在ではないのか、と。