他方で、逃亡中のブースは、自分は英雄になったのだと、日記に記します。一般的に政治テロを行うのは、世の中は間違った方向に進んでおり、それを糺したいという信念のためとされます。ただ、いつの時代も、歴史は複雑な因果から成り立っています。それでも、戦争や暗殺はそうした複雑な背景を覆い隠し、勝者の目線でもって語られることになるがゆえに、殺された犠牲者は国民の一体感のシンボルとなっていきます。リンカーンは、今日でもアメリカ人から最も尊敬される大統領の1人であり、その姿はワシントンの記念堂のみならず、5ドル札や切手でも拝むことができます。命を失った政治家は、本来であれば、このようにして統合の象徴となるものでなければなりません。
『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』――「一粒の砂」が力を求める
そもそも、直接の接点がないにも拘らず、なぜ人はその国の指導者を殺したいと思うのか。その手掛かりを与えてくれるのは実話をヒントにした『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』(ニルス・ミュラー監督、2004年)、暗殺者のビックを演じるのは、頼りない男を演じるなら右に出る俳優はいないであろう、ショーン・ペンです。
妻に三行半を突きつけられ、家具店のしがないセールスマンであるビックは、職場の上司からのハラスメントもあり、自ら起業し、成功をつかむことを夢見ます。その背景には、誰しもが成功者であることを運命付けられ、消費社会が進んでいった1970年代のアメリカがあります。「私のボスは私でしかない。(略)従業員というのはこの国の新しい奴隷なのです」――クラシック・ファンのビックは、自分の想いを彼が崇める世界的指揮者バーンスタインに向けてずっとテープに吹き込んでいきます。「教えてください、バーンスタインさん。アメリカンドリームをつかみたいのです。(略)それが高望みですか?」。
もちろん、彼が目指すアメリカンドリームは成就しません。「正直なビジネスがしたい」といって嘘の申請によって申し込んだ事業融資は断られ、妻や最後の頼みの綱だった兄からも見放され、あらゆる承認と自尊心を失った彼は、ある事件にヒントを得て飛行機をハイジャックして、ホワイトハウスに突入するという計画に打って出ます。
なぜ、個人の人生が行き詰まることで、大統領を殺すという行動につながるのか。それはビックの不器用でパラノイア気味の性格だけに起因しません。むしろ、彼は自分がどんなに努力しても報われない社会を糺そうと、ブースと同じように正義感から、犯行を計画するのです。ビックの上司は、ある晩、テレビに映るニクソン大統領をみて、彼こそ世界最大のセールスマンだ、選挙公約でベトナム戦争から撤退すると国民に売り込んでおきながら、実際には増兵しているのだから、と評し、「約束はしても実行しない」ことが鉄則だ、とビックを諭します。ちなみに、ニクソンはリンカーンと真逆で、アメリカ歴代大統領のうち、今でも最も嫌われている人物の1人です。
ビックが身を挺して直そうとしたのは、そうした、報われない国の形であり、その国を率いる大統領を暗殺して、自らが「負け組」から「英雄」になるという一発逆転を狙ったのです。「私は一粒の砂のようなものです。(略)でも私に皆さんが味方してくれたらこの国の権力者たちに思い知らせてやります。たとえどんなちっぽけな一粒の砂にも力があることを」――確かに身勝手な論理に聞こえるでしょう。しかし、そんな身勝手な論理を作り出したのは、ビック自身というよりも、彼の生きた時代なのです。この映画が優れた政治社会批評でもある所以です。
『タクシードライバー』――矛盾の果てに
やはり政治家の命が狙われる映画として知られるのが、映画史での名作のひとつ『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督、1976年)です。先の安倍晋三元首相の銃撃事件の際にも、SNS上でこの作品に言及するものが少なからずありました。この作品自体、1972年に銃撃されたジョージ・ウォレス大統領候補の暗殺未遂事件にヒントを得たとされ、さらにこの作品に影響を受けたと証言する人物が1981年にレーガン大統領暗殺未遂事件を起こしています。
時代はやはり1970年代のアメリカ、舞台はこの時代、最も治安が悪かったニューヨーク。主人公トラヴィスを演じるロバート・デ・ニーロの演技はもちろん、街の彩りを捉えるカメラワークや甘美でありながら不気味な音楽などが印象に残る作品です。
ニューヨークのイエロー・キャブ(タクシー)の運転手で、ベトナム戦争の退役兵であるトラヴィスは、戦争のトラウマからか、あるいは映画の中で示唆されるように幼い頃の家庭での不和からなのか、不眠症に悩まされる人物です。彼もまたビックと同じように、正直者でありながら、あるいはそれゆえに社会での「負け組」として生きることを余儀なくされます。
そんな彼は、選挙事務所で働く女性ベッツィに一目ぼれし、デートに誘うことに成功しますが、彼女は何の文脈もなく、トラヴィスが「歩く矛盾」のようだと評します。事実、トラヴィスは2つの世界を行き来するアンビバレントな存在――正義と邪悪、優しさと意地悪さ、規律と堕落――として描かれています。世俗を嫌悪すると同時にポルノ映画館に通い、女性を崇めたかと思えば蔑視し、努力して人生を変えようとする一方で易きに流れます。わが身を振り返れば、こうしたトラヴィスの抱える矛盾は、むしろ普遍的な人間の姿なのかもしれません。
彼は、そのベッツィにも振られたことで、彼女がスタッフとして働く大統領選候補者を闇で手に入れた銃で暗殺する計画を立て、ホルスターを手作りし、殺傷力を高めるために弾を加工します。
「あらゆる悪徳、不正と戦う」――自分の境遇が恵まれないのであれば、そしてもがいてもそこから抜け出せないのであれば、暴力を用いてまでも、その環境をひっくり返さないとならない。だから、政治家は否定の対象となるのです。これは、究極の自己責任論であると同時に、環境を自らの手で変えてみせようとする、「究極の自己責任論の否定」という矛盾した思考と行動の帰結です。それゆえにトラヴィスは「歩く矛盾」と形容される存在となり、まただからこそ、政治家を暗殺しようとする犯人の動機はいつも理解されにくいのでしょう。