エリザベスの驚くような機転で、土壇場で銃規制派は法案を可決させるに至りますが、彼女自身は黙秘権を行使せず全てを包み隠さず話したため収監されます。彼女は確かに正しい目的を実現するために手段を選びませんでした。しかし、それには代償が伴うのです。
先に紹介したヴェーバーはこう述べてもいます。曰く世の中に責任を押し付け、それを糺(ただ)してみせるというヒーローを気取る政治家は信用できない。そうではなく「結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間(略)がある地点まで来て、『私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる』と言うなら、測り知れない感動をうける。(略)そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟って『政治への天職』をもちうる真の人間をつくり出す」(*5)のだ、と。
政治において、手段と目的を切り離すことはできません。目的だけに拘泥するのではなく、手段だけにとらわれるのでもなく、それを一致させることにこそ政治という営みの醍醐(だいご)味があること、そしてそれを行い得るのは政治家に限らないということをこの映画は見事に示してくれるのです。
(*1)
マイケル・ウォルツァー『政治的に考える』(風行社、2012年)「政治行為と『汚れた手』という問題」より
(*2)
マキアヴェッリ『君主論』(岩波書店、1998年)より
(*3)
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(岩波書店、1980年)より
(*4)
Martin Gilens and Benjamin Page ‘Testing Theories of American Politics: Elites, Interests Groups, and Average Citizens’ Perspectives on Politics, vol.12, no.3. 2014.
(*5)
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(岩波書店、1980年)より