世界的に知られた哲学者、マイケル・ウォルツァーに「政治行為と『汚れた手』という問題」という名の論文があります。「汚れた手」はサルトルの戯曲によりますが、これは政治という営みに付きまとうものとして論じられています。「政治」と言うと難しく聞こえますが、自分が属する共同体(国や地域、家庭や仕事場など)に対して働きかけをする行為と言えばいいでしょう。
政治に「汚れた手」が付き物とは、どういうことか。ウォルツァーは、例えば政治家が選挙に勝つために汚職に手を染めなければならないという「道徳的なジレンマ」を挙げています。選挙でいくら良い公約を掲げていても、当選しなければ実現できない。ならば、手を汚してでも選挙に勝つべきなのか。彼はまた、拷問の例も挙げています。国民を助けるために爆弾の在りかを吐かせようとして、政治家は自らの良心に反してまでも拷問を指示すべきなのかどうか――つまり、政治という行為には本質的にいつも道徳上のジレンマが付きまとうわけです。ウォルツァーの印象的な言葉を借りれば「われわれは他者のために行動していると主張しながら、同時に自分のために他者を支配し他者に暴力をふるっている」(*1)のが政治の常です。正しいことを行うために、正しくないことまでも受け入れるべきなのかどうか、あるいは手段が正しいとしてそれは目的までを正当化するのかどうか――「汚れた手」のジレンマは政治や政治家を扱った戯曲や小説で繰り返し扱われてきました。今回は、この「汚れた手」を主題に、3本の映画をみてみましょう。
『スーパー・チューズデー 正義を売った日』――政治の目的とは?
最初の一本は、俳優ジョージ・クルーニーがメガホンを握った『スーパー・チューズデー』(2011年)です。2004年に民主党の大統領選候補ハワード・ディーンの選挙スタッフが書いた戯曲を原作にしています。配役は、実生活でも熱心な民主党支持者として知られるクルーニーに加え、ライアン・ゴズリング、フィリップ・シーモア・ホフマン、名脇役として知られるポール・ジアマッティなど、有名どころが揃っています。
ストーリーは、クルーニー演じるペンシルバニア州のモリス知事が民主党の予備選に出馬し、正式指名をあと一歩で手に入れるというところから始まります。アメリカ大統領選は、民主党、共和党ともに一般有権者が登録して予備選で候補者を決めるのが常です。08年に下馬評を覆して民主党候補となったのがオバマ大統領、16年にやはり大番狂わせで共和党候補となったのがトランプ大統領でした。映画の舞台となるのは、オハイオ州ですが、同州は民主党と共和党支持が選挙のたびに入れ替わるスイングステートとして知られており、ここでの予備選はとても重要です。
選挙戦の現場を仕切るのは、スティーヴンという理想に燃えた青年です。彼は記者から本当に世界を変えられると信じているのかと問われて、「国民の生活を実際に変えられるのはモリスだけだ」と即答します。モリス知事は、教育や環境を重視する屈指のリベラル政治家。政治を夢見る青年の目には理想的な政治家に映ったことでしょう。スティーヴンは腕を買われて対立陣営からスカウトされますが、彼は「汚い手も使ってきた。今はその必要がない。モリスだからだ」と、その誘いも断ります。実際、モリス候補は予備選を勝つために地元の上院議員の支持を獲得しなければなりませんが、「選挙をやってるといつも妥協の連続だ」と言って、当選のための決定打であるにもかかわらず、選挙対策本部の勧めに反してポストを餌に議員を抱き込むことを拒否します。スティーヴンは、彼の高潔な姿勢に感銘を受けてこう言います。「目的が正しければ悪いことは起きません」「(僕は)大義を信じている限り何でもやります」。
ところが、スティーヴンのモリスへの尊敬の念は、彼がインターン生と性的関係を持っていた事実を知ったところから揺らぐようになります。なぜかリベラルな政治家には女性スキャンダルが付き物です。「英雄色を好む」ではありませんが、歴史的にみても、アメリカのケネディ大統領やクリントン大統領、西ドイツのブラント首相などが女性好きとして知られていました。
スティーヴンはモリスとインターン生との関係がばれないように隠蔽(いんぺい)工作を行い、彼女を選対から追い出しますが、今度は彼が対立陣営のスタッフと接触したかどで、上司のポールからクビを言い渡されます。「クソみたいな政界じゃ忠誠心が唯一の頼れる“通貨”だ」と、ポールは言います。
行き場をなくしたスティーヴンはやむ無く対立陣営に雇ってもらおうとしますが、スカウトの持ちかけそのものが選挙を有利に運ぶための罠だったことが判明します。
スティーヴンに残された手段は、インターン生との関係を脅迫材料に、モリスに復職と上院議員の抱き込みを要求することでした。
政治において手段と目的のどちらが優先されるのでしょう。スティーヴンは、正しい手段――すなわち手を汚さない――こそが、正しい目的――すなわち当選――の条件だと考えていた青年です。しかし、正しい手段だけに頼っていては、正しい目的は達成できないと悟ることになります。「民主的プロセスより結果が大事だ。共和党の汚いやり口も学ぶべきだ。彼らはもっと卑劣で強くて統制も取れてる。政界に25年いるが民主党は敗北ばかり、本気で泥仕合をやらないからだ」――スティーヴンがモリスの対立陣営の選挙参謀から言われた言葉です。果たして彼がモリス知事を当選させることができたとして、それは自らの野心のためなのか、保身のためなのか、それとも「国民の生活を変える」ためなのか。モリスを脅迫する立場となったスティーヴンの顔はどこかうつろにみえます。
「われわれは他者のために行動していると主張しながら、同時に自分のために他者を支配し他者に暴力をふるっている」というウォルツァーの言葉を思い出してみましょう。言い換えれば、他人のためにという政治の目的は、自分による手段があってはじめて実現します。だから、時と場合によっては、他人が手段となり、自分が目的になるというのが、政治という行為の持つ本質なのです。
(*1)
マイケル・ウォルツァー『政治的に考える』(風行社、2012年)「政治行為と『汚れた手』という問題」より
(*2)
マキアヴェッリ『君主論』(岩波書店、1998年)より
(*3)
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(岩波書店、1980年)より
(*4)
Martin Gilens and Benjamin Page ‘Testing Theories of American Politics: Elites, Interests Groups, and Average Citizens’ Perspectives on Politics, vol.12, no.3. 2014.
(*5)
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(岩波書店、1980年)より