『大臣と影の男』――手段におぼれる政治
政治では、目的がいかなる手段も正当化する、という立場をとったのは15~16世紀のフィレンツェ共和国に仕えた官吏、ニッコロ・マキアヴェッリでした。彼は後世多くの政治家のバイブルの一つとなる著作『君主論』で、「経験によって私たちの世に見てきたのは、偉業を成し遂げた君主が、信義などほとんど考えにも入れないで、人間たちの頭脳を狡猾に欺くすべを知る者たちだったことである」「手段はみなつねに栄誉のものとして正当化され、誰にでも称賛されるだろう」(*2)と断言します。反対に国民に慕われよう、好いてもらおうとすれば、人々は移り気で自分勝手なのだから、世を平定することなどできない、と警鐘を鳴らしました。手段と目的を取り違えてはいけないのだ、と。
この手段と目的の間で揺れ動く政治家を描くのが、『大臣と影の男』(ピエール・ショレール監督、2011年)です。プロデューサーにはカンヌ映画祭受賞の常連ダルデンヌ兄弟も加わり、主人公となるフランスの政治家には彼らが重用する俳優、オリヴィエ・グルメが配役されています。
グルメが演じるのは、運輸大臣ベルトラン・サンジョンです。サンジョンは、エリートひしめくフランスの政界で派閥に属さず世襲政治家でもない、純粋で実直な政治家として描かれます。世論を気にして、地方で交通事故があれば現場に赴いて危機管理の陣頭指揮に当たり、出前のピザをとって夜中まで書類を前にタバコを吹かし、友達がいないからといって運転手の家に押しかけて酔いつぶれてしまう、普通の人でもあります。
彼は運輸大臣として、時の政権の方針である国鉄の駅の民営化という難問に取りかかることになります。フランス国鉄といえば、最近でもマクロン大統領が改革案を発表してからストライキが続いていますが、従業員25万人を抱える巨大国営組織です。自動車会社のルノーもそうですが、国有部門が大きいフランス(実にGDPの6割弱が政府支出による)では、世論も民営化には強い抵抗があります。だからサンジョンも民営化に反対の立場です。
ただし、大統領と首相を始め、内閣は民営化を推進する方針で一致しています。大臣の20年来の部下であった大臣官房長のジルは、民営化に賛成すればもしかしたらより重要なポストが将来約束されるかもしれないから、信念を捨てて賛成すべきだと、自らの辞職を賭してまでもサンジョンの説得にかかります。
サンジョンは意を翻して民営化を受け入れますが、思いもよらず、運輸大臣の任を解かれ、ジルを解任した上で国民から人気の高い雇用連帯大臣(厚労相)に就くよう言い渡されます。サンジョンは、世論から批判もされず、出世もできる状況を喜々として受け入れます。結局、自らの信念を裏切り、忠実な部下であるジルの信用も失うことになったわけです。
サンジョンは酔った勢いでこう言い放ちます。「昔の政治家は敬意を示され、働きを評価されてた。だが今の我々は皆に責められ、バカにされ、罵倒されてる」。これを聞いた彼の運転手の妻はこう言います。「国民はみな苦しんでいる」「政治家は口からデマカセばかり。やたらとテレビやラジオに出演して」。優柔不断なサンジョンは、世論に迎合することで自らの信念を失い、権力におもねるあまり部下からあざ笑われ、そして市民からの信頼を失います。「もう手は汚れてる」とサンジョンは言いますが、手段に拘泥するあまり目的を見失った、現代政治家の偶像でもあるのでしょう。
私の専門はフランス政治なので、フランスの政治家や官僚と会うこともありますが、この作品は、実際のスタッフやオフィスの雰囲気、意思決定プロセス、メディアとの関係などがとてもリアルに表現されているのが印象的な作品です。
もっともこの映画の最大のメッセージは、冒頭のシーンに表れています。そこには、裸の女性が大きなワニにのみ込まれる、抽象的なシーンが何の説明もなく挿入されています。これは政治権力という、残虐かつ甘美なものの象徴となっています。
『女神の見えざる手』――政治はいかにして「天職」となるのか
政治で「権力という手段」を手に入れるのは悪魔と契約することに等しい、としたのは、社会科学の巨人で、自身も晩年に政治家を志したマックス・ヴェーバーでした。
彼は『職業としての政治』という1919年に行った有名な講演で、「『善い』目的を達成するには、まずたいていは、道徳的にいかがわしい手段、少なくとも危険な手段を用いなければならず、悪い副作用の可能性や蓋然性まで覚悟してかからなければならないという事実を回避するわけにいかない」(*3)と言います。その上で、政治は手段こそが大事だとする「心情倫理」と、目的をかなえることが全てだという「責任倫理」という、和解しがたい原則」の間に引き裂かれている、と言います。
この心情倫理と責任倫理の矛盾を見事に描くのは、次に紹介する『女神の見えざる手』(ジョン・マッデン監督、2016年)です。映画の主人公は、活躍目覚ましいジェシカ・チェステイン演じるエリザベス・スローンという、女性ロビイストです。ロビイストというと日本では聞きなれないかもしれませんが、議員や機関に働きかけをして、特定産業や市民団体の要望に沿う政策や法案を成立させようとする利益団体などの人々のことです。アメリカではロビイングに支出される金額は年間30億ドル以上にのぼり、その職に1万人以上が従事していると推計されています。彼らの影響力は多大で、ある研究はアメリカ政府の政策の大多数は、経済的エリートや小さくとも巨額の資金を持つ利益団体の意向に沿うものだったと結論付けています(*4)。是非はともかく、実際に「国民の生活を変える」ためには、一般市民であっても集団を作り、ロビイングをする必要が出てくることになります。
エリザベスが働くのはワシントンにある大手ロビイング事務所ですが、銃規制緩和の仕事は自分の倫理にそぐわないとして、銃規制強化の働きかけをする弱小事務所に移籍します。そこでの彼女の目標は、銃規制緩和に反対する議員の数を増やすことにあり、「議員は国民より議席の死守が大事」と言って、資金集めから選挙区への働きかけを通じて規制賛成派を増やしていくことに成功します。
ロビイングの過程では世論を味方に付けることが大切です。その一環として、規制強化キャンペーンが張られますが、その責任者になったのが、弟を高校銃乱射事件で失ったことのある同僚のエズメでした。
エリザベスは世論感情を揺り動かそうと、エズメが銃犯罪犠牲者の一人であることを全国に生中継されたTV討論会で意図的に暴露します。トラウマの経験を一方的に暴露されたエズメは「私は“手段”なんですか?」と詰め寄りますが、彼女は「私は勝つために雇われた。どんな手段でも利用しなくては」「あなたの感情や人生に対し、私は義務を負ってない。目的に対して義務がある」と冷たくあしらいます。
もっとも、ある事件がきっかけとなって規制派は窮地に立たされることになります。エリザベスにも以前いた事務所での倫理規定違反の嫌疑がかかり、規制強化派潰しの一環として上院の聴聞会で諮問にかけられます。彼女は黙秘権を行使すべきとする弁護人のアドバイスを無視して、こう啖呵を切ります。「人は時に自分のためではなく心から正しいことだと信じて何かをする」「(規制派の)彼らは大きな犠牲を払い正しいと信じることを行ってきたのです」。そして、自分の利益を守ろうとする政治家こそが民主主義を蝕む寄生虫だと言い切ります。
(*1)
マイケル・ウォルツァー『政治的に考える』(風行社、2012年)「政治行為と『汚れた手』という問題」より
(*2)
マキアヴェッリ『君主論』(岩波書店、1998年)より
(*3)
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(岩波書店、1980年)より
(*4)
Martin Gilens and Benjamin Page ‘Testing Theories of American Politics: Elites, Interests Groups, and Average Citizens’ Perspectives on Politics, vol.12, no.3. 2014.
(*5)
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(岩波書店、1980年)より