アメリカは、黒人の奴隷解放があった南北戦争以来、分断にあえいできました。作中、ジョンソンは記念堂に鎮座するリンカーン像に向かって「あんたの後始末は私がつける」と言い放つシーンがあります。『LBJ』は、黒人の奴隷解放以降、人種的融和を目指したアメリカを保守しようとした保守主義についての作品でもあります。それでも、ジョンソンの希望もむなしく、アメリカの夢は未だにその途上にあります。アメリカの保守主義の再生が待たれる所以です。
『バベットの晩餐会』――人の喜びとは何か
19世後半のデンマークの貧しい漁村を舞台にした『バベットの晩餐会』(ガブリエル・アクセル監督、1987年)は、同年にアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞し、教皇フランシスコが「愛の喜び」と呼ばれる勧告(2016年)でも言及したことでも知られる、寓話的な作品です。
ルター派の宣教が盛んなこのうらさみしい漁村では、マーティーネとフィリパという、牧師を父親に持つ美人姉妹が、献身的に村人たちの面倒をみています。何分、質素と倹約が美徳とされるルター派。提供される食事は「レッゲスイブレズ」と呼ばれる魚の干物、そして「リッツウル」と呼ばれるパンのビール煮込みくらいしかありません。村にやってくる軍人や有名歌手は姉妹の虜になりますが、神の御心に生きる彼女たちの心は、恋心や芸術にも動かされることはありませんでした。
この姉妹のもとに、1871年、フランスからバベットという女性が訪れます。革命政府が生まれたフランスのパリ・コミューン騒動で貴族の夫が処刑された彼女は、伝手を辿って単身亡命してきたのでした。彼女は、召使いとして姉妹の世話をするという条件で村での滞在を許されることになります。
そのバベットが唯一、自分の国とのつながりとして大事にしてきたのは、毎年、フランスから送ってもらう宝くじでした。そして彼女が滞在してから14年が経って、そのくじが当たるという幸運に恵まれます。この年は、姉妹の父親である牧師の生誕100周年に当たるため、バベットは宝くじの賞金を使って村人のために盛大な晩餐会を開くことを提案します。マーティーネとフィリパは彼女の熱意に押されて承諾したものの、ウズラやトリュフ、ウミガメ、キャビア、シャンパンなど、これまで口にしたことがないのはもちろん、みたこともない食材が次々と運び込まれるのをみて驚愕します。「悪魔の饗宴だ」「全員、味覚がないみたいに振る舞おう」――村人たちは戦々恐々として晩餐会にのぞみます。
果たしてフランス料理のフルコースとワインのマリアージュを前にして、彼らは瞬く間に美食の虜になります。老人となった村人たちの間では時間が経つにつれて不和が目立つようになっていましたが、美味しい料理を前に恍惚の表情を浮かべ、心をひとつにします。
「今夜私は悟りました。この美しい世界ではすべてが可能であることを」――実はかつてパリの名門店の料理長だったバベットの振る舞う料理を平らげた人物が発する一言です。それまで、村人たちをはじめとする登場人物たちは、人生をかくあるべしと考え、それゆえに、自らの選択が正しいのかどうか、常に疑念につきまとわれていました。そうではなく、奇跡的ともいえる現在の生を肯定して、初めて人は幸せになれることをバベットの晩餐会で体得したのです。バベットを通じて村人たちが知ることになったのは、神への忠誠の証したる禁欲ではなく、自分と生活を分かち合う仲間たちと共有する愉しみだったのです。
この映画は、宗教革命を起こして禁欲的で個人主義的なエートスを大事にするプロテスタントに対して、歴史的に培われてきた生の悦びと共同性のエートスを大事にするカトリックによる反論としてみなすこともできます。ただ、そのバベットは、宝くじで得た大金を晩餐会のためにすべて使い果たし、姉妹とともに余生を送る決心をすることから、両派の共存を訴えるものでもあるでしょう。
日本の保守主義知識人である福田和也に、『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』(河出書房新社、2023年)という本があります。彼は、彼岸に価値を置くのではなく、今生きている人とのつながりを大事にし、その中で生きることこそが日本の一般的価値だとした上で「自分の生活スタイルを保持すること、そのために失われやすいものに対して、鋭敏に、かつ能動的に活動する精神を、保守と言う」と、冒頭で紹介したバークと同じことを指摘しています。
『目撃』は喪失される正義と正直さを、『LBJ』はアメリカの人種を超えた自由を、そして『バベットの晩餐会』は現在の生への感謝を視聴者に改めて差し出すことで、失われやすいものを保守することの大切さをそれぞれ訴える作品です。これらが問うのは、保守主義という概念が提示するものとは、私たちが何を大事に思うのか、何を価値として次世代に伝えたいのか、というものでもあるのです。