ただし連帯はこれで終わりませんでした。この年にロンドンで行われたプライド(ゲイ)・パレードに、今度はLGBTらと親交のあった炭鉱労働者たちが「同性愛者支援炭鉱夫の会」を結成して、何百人と参加することになったからです。「皆さんがくれたのはお金ではなく友情です。自分よりはるかに巨大な敵と闘っているときにどこかで見知らぬ友が応援してると知るのは最高の気分です」――ゲイたちからの寄付金を受け取った炭鉱夫が語る言葉です。
政治哲学者のエルネスト・ラクラウは、資源やネットワークがない孤立した集団が、社会で大きな勢力になるためには、様々なシンボルを介した「結合」が欠かせない条件であると指摘しています。異なる社会に生きる、異なる世代が相互に支え合うことで、運動は大きな影響を持つことになります。『パレードへようこそ』は、古い社会運動、新しい社会運動も、ともに社会運動である点において何も変わらないということを見事に表現した作品です。
『ザ・イースト』――新たな時代に社会運動は可能か
新たな時代の、新たな社会運動をサスペンス風に描くのは『ザ・イースト』(ザル・バトマングリ監督、2013年)です。環境問題と、大資本に対する過激派アクティヴィスト運動を題材としている点は、時代を先取りした作品と言えるでしょう。
アメリカで大企業に対するテロ行為が立て続けに起きたことを受け、コンサルタント会社に勤める主人公のジェーンは、犯人の正体を探るため「ザ・イースト」と自称する集団に潜入しようとするところから、映画はスタートします。この集団は、カリスマ的なリーダーであるベンジーを慕う若者たちが集い、自然の中でともに生活を送りながら、社会問題を引き起こす企業を懲罰し、問題を世間に知らしめることを目的にして結成されたものであることが明らかになります。「我々はザ・イースト。人々の心に警鐘を鳴らす」――集団はITを駆使しつつ、周到に計画され、極めて洗練された手法でもって大企業の悪事を白日のもとに晒すことに成功します。もとは彼らを告発することを心に決めていたジェーンですが、正義感の強い彼女は、徐々に集団の思想に感化されていきます。
彼らが新たなターゲットとして定めたのは汚染水を垂れ流し、健康被害を引き起こしている企業でした。アメリカでは2015年にミシガン州フリント市で、鉛による甚大な健康被害が社会問題となったことがあり、今の日本でも米軍基地から流れる化学物質PFASが問題になるなど、水汚染は深刻な問題であり続けていますが、それらを予言するかのような内容でもあります。
では、どのようにしたら広く世間の注目を浴びることができるのか――社会運動論には「争点サイクル論」という理論があります。これは、ある社会問題が関心を集めても、飽き性な世間は徐々に関心を失っていくため、また新たな問題を突きつけ続けないと持続的な問題解決には行きつかない、というものです。つまり、集団にとっては、持続的にターゲットを見つけ、それをいかに世間に関心を持ってもらうのかということが課題になります。ただ、「ザ・イースト」のメンバーたちは、その方法をめぐって意見の一致をみません。「人は理屈では反応しない。暴力で目を覚まさないと。9.11のときのように怒らせないと」「人を傷つけたら彼らと同類よ」「みんなが報復に反対するのは被害を受けたことがないからだ」――社会運動論では「巻き込まれのジレンマ」と呼ばれる法則もあります。これは、社会運動は過激である方が注目を浴び、運動する側の凝集力を高めることができるものの、あまりにも過激過ぎると社会から反発を浴びたり、その方法についていけないメンバーも出てきたりするというジレンマを指します。「革命はいつも困難だ。だからこそ大事なんだ。逃げちゃいけない」。リーダーのベンジーは、強硬な手段に打って出ることを決めます。
この作品のポイントは、主人公ジェーンやベンジーを含めて、アクティヴィストは皆が個人的事情から、社会運動に身を投じていることが描かれていることにあります。ある者は過去のトラウマを克服するため、別の者は父親に復讐するため、あるいは単に居場所と仲間を求めて活動する者もいます。『ノーマ・レイ』や『パレードへようこそ』が所属やアイデンティティをベースとした運動を描いたのに対して、『ザ・イースト』は社会関係資本が喪失され、極めて個人化した時代の新たな運動の在り方とそれゆえの限界を指摘する映画でもあります。そして、こうした個人間の行き違いから、組織は壊滅的な打撃を受けることになります。つまり、極めて個人化され、絆を失った時代における社会運動の不可能性を指摘するのがこの作品でもあるのです。
それでも、映画は最後にジェーンが今度は新しい手段でもって、まったく新しい社会運動の形を作り上げようとする希望を示して終わります。社会が変われば、それに合わせて社会運動の在り方も変わっていくことになるのです。
社会運動はその目標と手段を、時代に合わせて柔軟に変えてきました。社会運動の捉え難さは、そうした融通無碍な姿と無縁ではありません。それでも、あるいはそれゆえに、社会は変わらなければならない、問題を解決しなければならないという意思がある限り、社会運動はこれからも決してなくなることはないでしょう。