生き残った者の責務――『シモーヌ』
絶滅収容所にいた者、つまりその腕に囚人番号を刻印された者で政治家になった者は多くありません。しかし、度重なる偶然でもって生還を果たし、それゆえに残りの人生を世の中を善き場所に変えることに捧げた政治家も存在します。中でも最もよく知られた人物は、フランス人のシモーヌ・ヴェイユでしょう。彼女の名前は、人工妊娠中絶を実現させた1974年の「ヴェイユ法」、あるいは日本でも知られるようになった議員の男女同数を定める「パリテ法」の推進者としても知られますが、わずか16歳の時に、当時ナチスに協力していたフランスで捕まって、アウシュヴィッツ゠ビルケナウ収容所へと送られ、ホロコーストで両親と兄を亡くした経験の持ち主でもありました。
そんな彼女の人生を描くのが『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』(オリビエ・ダアン監督、2021年)です。原題のサブタイトルが「世紀の旅」と銘打っているように、1927年に生まれ2017年に亡くなった彼女の人生はフランスの20世紀を体現するものでもあり、フランス戦後史を知るにも最適な一本です。
作品は、晩年のヴェイユが自分の人生を回顧するところから始まります。自身の人生の転換点――当時まだ珍しかった女性司法官として刑務所待遇を改善させたこと、保健大臣として中絶認可を推し進めたこと、女性として初めての欧州議会議長となったこと、エイズ患者支援に尽力したことなど――を交互に織り交ぜながら、収容所から生存したユダヤ系女性としての人生を浮き彫りにしていきます。モノローグの文章は、彼女の自伝『シモーヌ・ヴェーユ回想録』からの引用となっています。また、作品中に説明がないのでわかりにくいのですが、終盤に登場するユダヤ人死亡者の「名前の壁」は、彼女が設立に尽力し所長を務めたパリの「ショア記念館」に設置されているもので(ヴェイユの意向もあって記念館は無料なので是非訪れてみてください)、その後にフレームアップされる剣はフランスの名士たちで構成される「アカデミー・フランセーズ」会員に授けられるものです。ヴェイユの剣には、彼女の人生を象徴する「ビルケナウ」「自由、平等、友愛」「多様性の中の統合」(EUの標語)、そして収容所での番号が彫られています。
ヴェイユの政治的闘いの根底にあるのは、彼女が母親から受けた愛情と教育であることも、徐々にわかっていきます。職業人になることを諦めて家庭に入ることになった母イヴォンヌは、幼いシモーヌに「あなたは勉強して自立しなさい」と諭します。母親はまた、収容所で絶命する間際に「善行なさい」との遺言を残します。ヴェイユは収容所での経験を、レーヴィと同じように「食料や毛布を死守して、自分たちが生き延びるためには勇気を出して利己的にならざるを得なかった」と振り返ります。それでも、手づかみでわずかな食事をほお張らなければならない母親のために、スプーンを命がけで探し出そうとする姿から、彼女が母親の戒めに忠実だったことが窺われます。
冒頭に、ユダヤ人迫害と絶滅収容所の話は広く知られていなかったと書きましたが、そのことにヴェイユはずっと苦しめられていた事実も指摘されています。歴史家のトニー・ジャットが「ヴィシー(=第二次世界大戦中におけるフランスの対独協力政権)症候群」と表現したように、戦後、フランスもまたナチス・ドイツに協力したこと、その中でユダヤ人追放に手を貸したことを恥としてきました。そしてフランス人自らがレジスタンスを組織して解放を勝ち得たことが正史として戦後流通していました。そんな状況で、ヴェイユのような生存者は「集団的記憶の中のトゲ」のように邪魔だったわけです。
ヴェイユは女性であること、そしてユダヤ人であることの二重のハンデを負った人物でもありました。それゆえ、彼女は、女性と社会的弱者の支援に一生を捧げることになります。エリート校のパリ政治学院を卒業し、夫の反対にあいつつも、3人の子どもを育てて司法官として刑務所や留置所の環境改善を粘り強く進めていきます。50年代のフランスはアルジェリア戦争に翻弄されましたが、現地で拷問にあっている政治犯の本国での保護も実現させます。保健大臣に抜擢されてからは、数多くの男性議員の批判を浴びながら、中絶法を成立させます。エイズが問題となる80年代になってからは、支援体制構築のために国際会議を主催します。それらは、作中のヴェイユの言葉を借りれば「尊厳と民主主義、そして人間性の問題」だったのです。映画では、今では飛ぶ鳥落とす勢いの極右政党である国民戦線(現・国民連合)から罵声を浴びせられるシーンもありますが「親衛隊に比べたら脅威じゃない」と一蹴するように、極右政党はそんな彼女にとっては敵ですらなかったでしょう。
「あなたは生きなきゃいけない」「生と死の隔たりはわずかしかない。破壊と再生も紙一重」とは、ヴェイユが若くして子どもを亡くした麻薬中毒のエイズ患者女性にかける言葉です。たまたま生存者として生きることを余儀なくされ、だからこそ社会の不遇をなくすことを責務とした人物ならではの人生訓ではないでしょうか。
「好むと好まざるとにかかわらず、私たちには団結を生む責任がある。過去の出来事から学び、未来へと進むものだ」――単なる過去の歴史を知るというだけでなく、世界の紛争地でジェノサイドやホロコーストが再び生じているという現実を前に、人間は何のために生きているか、どう生きるべきなのかということを、これらの映画は教えてくれます。