ヨーロッパ社会に最も同化していたのがドイツ系ユダヤ人でしたから(だからこそ憎しみの対象となったわけですが)、そもそも誰をユダヤ人と認定するのか、国防軍に配属されているユダヤ人をどうするのかということも討議になります。禁止となっていた混血婚カップルや彼らの混血児は免除される方針が検討されますが、では、その混血児の兄弟や子どもはどうなるのかといった難しい問題に直面することになります。会議では断種手術をすることなどが検討されますが、血統や人種で人間を分けることの理不尽さがよく分かります。
この作品の妙は、主催者である親衛隊からは匂わせられるものの、最後の最後まで「最終解決」が具体的に何であるか、明かされないことです。会議出席者も薄々感じ取りながらも口に出そうとしません。ヴァンゼー会議の議事録にも、どのようにしてユダヤ人を虐殺するかの具体的方法については記録されていないため、映画では、会議室ではなく懇親の場でそれが明かされた、という演出を採っています。
その場で、ある人物がこう問います。「(過去に)3万3771名のユダヤ人に対して特別処理をするのに36時間かかった。つまり1時間に938人。(ヨーロッパ全体の)1100万人は1万1720時間、つまり488日間かかる」。しかもこうした場合、ドイツ兵の「精神の負担」が問題になると、その「倫理的」な側面を問題視します。これに対して「最終解決」は「人道的な方法」で実施されることが約束されます。その方法を、最後にアイヒマンが明かします。
「ユダヤ人は鉄道で施設に到着。労働不可能な者を選別し所持品を没収。消毒と偽って彼らを気密なガス室に誘導します。例の薬品は外から投入します。正しく行えば10~15分で完了。部屋を換気し、死体を搬出して処理します。高性能の焼却炉も計画中です」――こうした綿密に練られた計画に出席者皆が納得して、会議は終わります。
人間であるために――『サウルの息子』
アウシュヴィッツ絶滅収容所での死体処理シーンから始まるのは、アカデミー賞外国語映画賞も受賞した『サウルの息子』(ネメシュ・ラースロー監督、2015年)です。絶滅収容所の悲惨さを描く映画は数多くありますが、この映画はその中でも最もリアルなもののひとつでしょう。ほぼ全編がサウルの目線を追う手持ちカメラで撮影されているということもありますが、どういう意味でリアルなのか、それを説いていきましょう。
ハンガリー系ユダヤ人サウルは、死体処理をはじめとする雑用を行う収容所の「ゾンダーコマンド(別部隊)」の一員で、ある日、ガス室で処理された少年の姿を目にします。サウルは、この少年が何者なのか、情報を執拗に集めようとします。ゾンダーコマンドの多くは最終的には殺される運命にありましたが、必要な労役者でもあるため、様々な場所に出かけたり、人間と接触したりすることもできたためです。彼は、解剖に回された少年の遺体を処理しないよう医師に懇願し、収容所に送られてくる人間の中から、ラビ(ユダヤ教の聖職者)を見つけ出そうと躍起になります。彼は「息子が殺された」と告白し、ラビと思しき人物にカディッシュ(死者に捧げるユダヤ教の追悼の祈り)をして欲しいと頼みます。
ガス死した親族の遺体を処理しなければならないという、筆舌に尽くしがたい経験があったという事実も残っていますが、映画ではもっともこの少年が本当にサウルの息子だったのか、判然としない部分もあります。もし本当に息子だったら、なぜ彼の素性を知ろうとするのか、なぜ彼と対面した時に何の表情も見せないのか。作中では、サウルが仲間からそもそも「息子なんかいない」と指摘される一コマもあります。
「人間は根本的には野獣で、利己的で、分別がないものだ、それは文明という上部構造がなくなればはっきりする」(前掲書)とは、このアウシュヴィッツでの収容所生活を送った、先述したレーヴィの言葉です。同じように、哲学者アーレントは、『全体主義の起源』で、絶滅収容所の真の問題は、それが抹殺の場所というよりも、人間を動物のようにさせてしまうことにあると指摘しました。このように考えると、サウルはそのような非人間的な状況下で、未来を失った少年を弔うという、収容所では一見、何の役にも立たないことを敢えて行うことで、最も人間らしい性質を自らの手で回復しようとしていたのではないかとみることもできます。このように解釈した時、少年が本当に彼の息子だったのかどうかは、実は物語の本筋ではないことがわかります。生存競争だけが規律となる世界で、人間性を回復しようとする物語であることに『サウルの息子』のリアルがあるのです。
作品では、これも史実である、ゾンダーコマンドたちによる反乱と脱獄が企てられていることが伏線として描かれています。彼らが抹殺の対象になろうという時、隠していた武器で看守らに攻撃を仕掛け、サウルも少年の死体を背負って脱走を試みます。しかし、その中途で死体を手放してしまった彼に、物語はもはや未来を与えることもありません。
自らの運命が潰えようとしている時、サウルは自分を発見した地元の子どもに微笑みかけます。死ぬべき者しか存在しない収容所から逃げ出すことができた彼が最期に笑顔を見せたのは、その少年にもしかしたら未来を託すことができたからなのかもしれません。