『アバター』――帝国主義の贖罪
3本目に取り上げるのは、ジェームズ・キャメロン監督『アバター』(2009年)です。興行収入世界歴代トップとなったこのSF映画は、CGを多用した革新的な映像だけでなく、細微にわたる独自の世界観を展開した大作として知られています。2時間半以上もある様々な展開のあるこの映画は地上波などでも放映されて、観られた方も多いはずですから細かな物語の展開は省きましょう。
地球に住む人類が「アンオブタニウム」と呼ばれる希少資源を求めて惑星パンドラに住む先住民族ナヴィを支配・排除しようとする物語は、白人によるアメリカ大陸支配を強く意識したものであると多くの人は感じるでしょう。やはりSF作品を得意とするヒットメーカーのマイケル・ベイ監督『アイランド』(2005年)がアメリカの奴隷問題を下地にしているように、アメリカ建国の歴史とSFが相性の良い組み合わせであることは確かです。いわばアメリカの過去の経験を、これから未来に起こり得るものとして提示する手法です。「リンク」と呼ばれる道具を使ってナヴィ族のアバターとなり、「あっち」と「こっち」の世界に引き裂かれるジェイクを主人公に、ナヴィ族の自然信仰や精神世界の尊重、他方で侵略する側である人間の暴力性、権威主義や拝金主義が対照的に描かれていることは、確かにアメリカ建国史の裏面を高度のエンターテイメント作品として仕上げたものと解することができます。
ただし『アバター』にはもっと多様な告発が込められていることもわかります。例えば、後半の圧倒的な武力を用いて自然を破壊するシーンは、この映画が参考にしたとされる『地獄の黙示録』のベトナム戦争でのナパーム弾による破壊を想起させます。そもそも最終的に「あちら側」に行ってしまうジェイクは、『地獄の黙示録』のカーツ大佐の現代版焼き直しではないでしょうか。また、ナヴィ族やその他部族による支配者に対する抵抗は、第二次世界大戦前の支配者に対する祖国統一運動や、大戦後の民族独立戦争の構図と類似しています。さらに、資源開発を目論む企業RDA社(企業が土地開発・資源開発をするのは帝国主義の定番でした)とその傭兵部隊は、ナヴィ族の蜂起に対して「先制攻撃」をするかどうかで議論を交わします。これなどは、傭兵部隊を重用し、軍事主義に走ったアメリカの対テロ戦争を暗示するものでもあります。さらにいえば、天然資源を求めての乱開発という舞台設定自体は自然環境の破壊を告発するものですし、ナヴィ族が人間以上に自然について先端的な知識を持っていることが描かれるのは、現在の先住民族の権利回復運動などで指摘されることでもあります。
映画『アバター』より
帝国主義は資源や資本、奴隷などを求めて、空間を際限なく拡張しようとする人間の欲望がもたらすものです。その過程では、持たざる者の生活環境や自然環境が絶え間なく破壊されていくことになります。だからアバターは、19世紀から20世紀にまで至る、過去から現在にまで続くすべての帝国主義の贖罪を総決算する映画でもあると解することができるでしょう。『アバター』が予算や収益だけにとどまらない「大作」である所以です。
この『アバター』シリーズは、2022年に公開された『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』に続いて、今年(2025年)には『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』が公開される予定です。シリーズは全5作品で完結するとされていますが、これからの帝国主義の在り方がどのように描かれ、どのような反省が求められることになるのか、注目です。