ロシアによるウクライナ侵攻やトランプ政権の外交姿勢もあって、最近になって「帝国主義」という言葉をよく目にするようになりました。これまでにも「帝国主義」は厳密に定義されないまま、様々な意味合いで用いられてきました。植民地獲得を目的とした19世紀イギリスのあり方を指すこともあれば、ベトナム戦争を受けてアメリカの帝国主義が非難されたこともありました。
「帝国」は、一般的に「国民国家」との対比で理解することができます。現実には必ずしもそうではありませんが、「国民国家」は同じ言語や習俗を共有する国民による共同体であるのに対し、帝国はこれよりは広大な領土を持ち、そのため、領域に様々な民族や部族を内包していることが一般的です。そして、社会学者ティリーが指摘するように、ローマ帝国やビザンチン帝国、神聖ローマ帝国などは過去1000年間のうちに衰退していき、代わりに崩壊した帝国の残骸から国民国家という共同体が世界を覆いつくすようになりました。ヨーロッパでは帝政ローマの崩壊、そして中東ではオスマン帝国の崩壊が、その後多くの国民国家を生み出すことになったのです。そして、現代における最後の帝国崩壊は、ソ連の消滅でした。
帝国主義といった場合は、この言葉はより政治的な意味を持つことになります。帝国主義のもっとも有名な定義は、革命家レーニンによるものでしょう。彼はイギリスの帝国主義を念頭に、余剰になった資本はさらなる利潤を求めて海外へと向かい、その資本を国家が追いかけることで領土が拡大されていく、としました。19世紀後半の帝国主義は産業革命が一巡し、ヨーロッパの域外で宗主国同士が帝国主義戦争を戦った時代ですが、その背景には資本の論理があったことは間違いありません。レーニンが指摘したことを、20世紀初頭にイギリスの植民地大臣を務めたジョセフ・チェンバレンは「政府ができることは、新しい市場を創出し、旧来の市場を拡大すること」であり、「もし対外的影響力を失えば、最初に苦しむのはこの国の労働者たちだ」と、より直截的に表現しました。
いずれにせよ、帝国の崩壊は古くは清帝国やオスマン帝国、最近ではソ連のように、多くの問題を後世に残すことも事実です。広大な領土をめぐって、誰が支配権を打ち立てるかが問い直されることになるためです。
そのように考えると、21世紀に入っても私たちはいまだに帝国主義の残滓に苦しめられていることになります。そこで今回も3本の作品を手掛かりに、帝国主義の特徴をみていきましょう。
今回紹介する3作のDVD。左から『王になろうとした男』(ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)、『愛の落日』(エスピーオー)、『アバター』(ウォルト・ディズニー・ジャパン)
『王になろうとした男』――「モブ」の行く末
最初に取り上げるのはアメリカの名匠、ジョン・ヒューストン監督による『王になろうとした男』(1975年)です。この作品は、日本でも『ジャングル・ブック』などの作品で知られるノーベル文学賞作家ラドヤード・キプリングによる19世紀末の短編小説を原作としたものです。「帝国主義の詩人」とも呼ばれることもあるキプリングは帝国主義者だったわけではないものの、インドなどにおいて、イギリス帝国がいかに人々の生活に影響を与えたのかを克明につづった作家でした。
『王になろうとした男』はキプリングを劇中に登場させ、彼と二人のイギリス軍の元兵士が知己を得るところからストーリーが始まります。ショーン・コネリー演じるドラボットと、マイケル・ケイン演じるカナハンの二人は、アレクサンダー大王以来、白人未到達の地である中央アジアはカフィリスタンの地を征服するのだと、キプリングに明かします。
実際、アフガニスタンを抜け、雪山を越えてようやくカフィリスタンに到着した二人がライフルを使って土地を支配するのは簡単なことでした。「未開社会に文明を運ぶ」として、ドラボットとカナハンは英国式の訓練で部族を鍛えて対立する部族を次々と制圧し、さながら戦国武将のように各地方を手中に収めていきます。いわば、イギリスの帝国意識を未開の民族にも植え付けることで、支配のための手段を手にしていくのです。しかも「仮面の部族」との闘いでドラボットの胸に弓矢が刺さるものの胸ベルトに当たったことで命拾いし、不死身の人間として、かつてこの地に到来したアレクサンダー大王の息子であるところの神であると崇めたてられるようになります。帝国主義は様々な神話やシンボルでもって統治を正当化しますが、ドラボットも古からの民衆神話を利用して、現人神になることに成功します。
映画『王になろうとした男』より
ドラボットもカナハンも、カフィリスタンを支配する最初の目的は、土地の金銀財宝を手にして、母国イギリスに凱旋帰国をすることでした。しかし神となったドラボットは、もはや金品ではなく、神の名を借りて国を統治しようとすることを決意します。「国の元首ともなれば女王陛下と会う時も対等に立ったままでいい」――ところが彼は欲を出して妻をめとろうとしたことをきっかけに、神ではないことが民衆にばれて、残酷にも殺害されてしまいます(ちなみにこのお妃候補を演じるのはマイケル・ケインの実生活での夫人シャキーラです)。そして、相棒のカナハンがその顛末をキプリングに語りに来た、という冒頭のシーンに戻ります。