『スノーピアサー』――世界に「外部」はあるか
最後に紹介するのは、『パラサイト』(2019年)や『ミッキー17』(2025年)でもはや世界的な監督となったポン・ジュノ監督による『スノーピアサー』(2013年)です。この作品も、フランスのグラフィックノベルを原作とするSFですが、皮肉を利かせた社会派的視点と、映画として飽きさせないエンターテインメントを上手に組み合わせた、ジュノ監督ならではの作品に仕上がっています。
時は2031年。地球温暖化が止まらない中、人類は冷却剤を散布するという奇策に打って出るものの、これが裏目に出て、世界は氷河期へと突入するという、倒錯した時代を迎えています。
生存者たちは「エンジン(=列車・動力)」と呼ばれる長大な列車に乗り、世界を周回するようになります。この「エンジン」には、ディスコやプールだけでなく植物園や水族館までが備わっており、さながら現代の「ノアの箱舟」です。ただし、列車は、最後部に貧民層、先頭部には富裕層が暮らすことが義務付けられ、階級社会の縮図ともなっています。SFファンタジーである石田衣良『ブルータワー』(2004年)は、近未来のタワーマンションの上下階を格差社会の象徴として取り上げましたが、この映画では「垂直」が「水平」へと置き換えられ、「エンジン」の先頭と後部の対立が描かれます。住環境の好悪だけでなく、貧民層はムシを加工したプロテインブロックしか食べられないのに対し、富裕層には寿司が振る舞われるなど、『パラサイト』同様、趣味や文化の違いが強調されるところもジュノ作品ならではです。
こうした閉鎖的で不平等な社会がなぜ維持されているのか。『Vフォー・ヴェンデッタ』と同じく、「例外状態」であることがその鍵になっています。「恐ろしい寒さから守ってくれるものはただひとつ、衣服でも車体でもなく、秩序です」「私たちは与えられた持ち場に留まらなければなりません」――「エンジン」率いる「首相」による言葉ですが、こうした秩序がなければ、全員が死ぬことになるという恐怖感によって、この惨(むご)たらしい社会は維持されています。
この不正義極まりない状況に反旗を翻すのが、最後部で生きるカーティスという青年です。彼は長老ギリアムの教えを受けながら、列車のセキュリティーを設計したエンジニアの知恵を借り、多大な犠牲を出しつつも車両を次々と突破し、命からがら最先頭に辿り着きます。

映画『スノーピアサー』より 写真:Everett Collection/アフロ
社会を支配しているのは独裁者などではなく、強欲かつ夢想家の資本家であるという図式は、今日ではますます現実味を帯びています。実際に「エンジン」を支配するのは政治家ではなく、最先端に陣取るウィルフォードという資本家でした。「エンジン」内での平等な分け前を迫るカーティスに対して、ウィルフォードは彼の目指した革命とその抑圧が、自身の手による画策であったことを打ち明けます。「エンジン」の中の資源は限られているため、謀反者を殺害することで周期的に口減らしをし、人口増を抑制する必要があったからです。
イギリス英語で「エンジン」は「機関車」を意味しますが、他方で機関車は一般的に産業革命のシンボルとされています。つまり資本主義は不可避的に不平等を生み出す原理であるだけではなく、不況を定期的に生み出すことで、その後に自己調整を通じて再び均衡を取り戻すというメカニズムが、ここで明らかにされるのです。産業革命が起きて以降、資本主義は世界恐慌という形でたび重なる動揺を経験してきましたが、そのたびに、新たな形をまとって生き延びてきました。産業革命によって工業が生まれ、その後の石油ショックによって新自由主義のもとでサービス産業が主体となり、リーマンショックを経た現在ではデジタル経済へと変転してきたように、です。哲学や社会学では、革命を生き延びた経済を「後期資本主義」などと呼ぶことがありますが、『スノーピアサー』は、この資本主義を打倒することの不可能性を描くものでもあります。
では資本主義を超えることのできる政治や経済は存在しないのでしょうか。作品では、資本主義には確かに「外部」が存在しており、そこで生きることの可能性がわずかに示唆されて、終わりを迎えます。
革命(Revolution)という言葉は、「魂が新たな身体に宿る」という意味も持っています。私たちの魂は、資本主義に代わる新たな身体を望み、そのために闘い、居場所を見つけることができるでしょうか。3つの作品は、そのための道筋を示してくれています。