以前、友人の常本琢招監督の新作『蒼白者』という映画の試写に招かれて、隣に座ったのがこれまた顔見知りの鎮西尚一監督だった。僕も含めて3人とも営業が下手なので知名度の低い監督ばかりだったけど、鎮西さんの作品はあの黒沢清監督から絶賛されることで、一部の映画ファンには知られており、なんというか、映画の仙人みたいな人である。
上映が始まってほんの2分ほど経過した時に鎮西さんが「上手いねぇ……」と呟いて、僕も頷いた。どっちも監督だから、それ以上の言葉は必要なかったわけだが、監督ではない人には少しわかりにくいのではないだろうか。鎮西さんは、一体何に対して上手いと言ったのか?
当たり前の話として、俳優が好演すると上手いと言われる。カメラマンは、カメラを操作して撮影するのが上手い人。お話の展開が見事だった場合、褒められるべきは脚本家だろう。脚本家はお話を作るのが上手い人だ。
だとしたら、映画監督というのは何が上手な人なのだろうか。
リュミエールが発明したシネマトグラフは、1本の上映時間がどれも1分未満の短いものだった。これは当時のカメラに装填できるフィルムの長さがそれくらいだったからである。リュミエールの作品はどれも、1シーン1カットだ。この時点ではまだ映画監督や編集といった職業は誕生していない。しかし、フィルムというのは接着すれば繋ぐことができる。別々の場所で撮影したフィルムを繋いで上映すると、時間軸が繋がっているようにも見える。つまり、フィルムを編集することで、映画は自由自在にストーリーを語れるように進化したのだな。劇映画の誕生である。
世界初の劇映画とされるメリエスの『月世界旅行』が1902年の9月で、翌1903年の1月にアメリカのエドウィン・S・ポーターが『アメリカ消防夫の生活』を、12月には『大列車強盗』を公開する。いずれもフィルムを編集することで物語のある劇映画を構成した先駆的な作品なんだけど、メリエスからポーターという順で見てみると表現が微妙に進化している。
『月世界旅行』が今見ても素晴らしいのは間違いないのだが、この作品は全てのカットが同じようなサイズとアングルで撮影されている。元々が舞台人だったメリエスは、ゴージャスに飾りつけた舞台を撮影する感覚で作品を作っているのだ。舞台を撮影するのであれば、客席の真ん中あたりにカメラを置くのがよいであろうことは誰にでもわかる。だから、『月世界旅行』前後に量産された劇映画は、演劇を撮影するようなスタイルで撮られたものばかりだ。我々がよく知っている現代の映画とは、少し感触が違うものの、それはそれで今見ても面白いものがある。たとえば、1910年にエジソン・スタジオで撮影された『フランケンシュタイン』は、世界初のフランケンシュタイン映画で、上映時間はたったの16分しかないけど、あの原作小説をダイジェストで伝えることに成功しており、これがかなり面白い。YouTubeに転がってます。なんていうか、スピーディーに場面転換する演劇をハイスピードで撮影した、みたいな感じでテンポ良く見せてくれる。

『アメリカ消防夫の生活』(写真:Album/アフロ)
そもそも舞台演劇というのは、基本的に場面転換が難しい。だから幕間を挟んで休憩時間をもうけたり、舞台を暗転させたりする技法が洗練されてきたわけだが、こと映画においてはフィルムを編集することでいくらでも場面転換ができるのである。 元から興行師であったメリエスにとっての映画というメディアは、言ってみれば編集によっていくらでも場面転換が可能な舞台劇だったわけです。ところがだ、ほぼ同じ時期のポーターの映画には単なる場面転換とは違った意味での編集という概念が芽生えている。たとえば、『アメリカ消防夫の生活』のクライマックスでは、火事で燃える建物から母と子を救い出すくだりを、建物の中で撮影したカットを見せた後で、もう一度、建物の外から撮影した画面で繰り返して見せる。つまり、編集による時間軸への干渉だ。現代の観客がこれを見たら編集ミスだと思うかもしれないが、まだそういった編集テクニックが確立されていなかったし、そもそも観客たちも巧みに編集された映像なんて見たことがなかった。
基本的に劇映画は、カメラマンと俳優がいれば成立するわけだが、ポーターの作品では編集という要素がかなり重要になっている。撮影した映像を、どういう順番で見せるか? それによって観客が受け取るイメージが大きく左右される。ここで、編集という仕事がカメラマンと同じくらいに重要な役割を担うようになってきた。
その少し前の時代、19世紀のヨーロッパの演劇の世界では演出家という仕事が注目されるようになっていた。これはもちろん、俳優たちにどのように演技をするかと指示をする演技指導者であり、照明や音響、舞台美術といった全体像を把握してコントロールする仕事で、世間一般の人がイメージする映画監督に近い。もちろん、それ以前から演出家的なポジションの人はいて、それは主に劇作家や主演俳優がやっていたのだけれども、19世紀の中ごろにドイツ帝国の中にあったザクセン=マイニンゲン公国のゲオルク2世がマイニンゲン劇団を創設し、衣装から舞台美術までをトータルでコントロールする演出家という立ち位置を確立した。映画でいうとプロデューサーと監督のポジションであり、後のオーソン・ウェルズやスタンリー ・キューブリックのような、作品全体を統括する映画監督のルーツである。演劇の世界を大きく改革したゲオルク2世は映画の時代が始まった1914年に亡くなっているのだけれども、撮影現場の全体に目を配りながら、自分が求めるビジョンを形にするという意味で、20世紀以降の多くの映画監督のプロトタイプと言っていいような仕事をした。演劇そのものは、おそらく有史以前からあり、演出家的な立場の人もいたはずなのだが、純粋に演出家という立場が成立したのは19世紀で、映画の誕生の少しだけ前の時期なのだ。
世界初の映画であったリュミエール兄弟の映画は、現代のカテゴリで言うとドキュメンタリーだったから、撮影はいわゆる野外ロケだった。それに対して舞台人であるメリエスの特撮映画は、セットを組んで撮影したものが多い。天候に左右されないという点で、スタジオセットでの撮影は便利なのだ。
世界初の西部劇映画とも言われるポーターの『大列車強盗』は、舞台装置のようなセットでの撮影と野外でのロケ撮影を組み合わせたものなので、かなり現代の映画に近い空気感がある。走っている列車の上でのアクションもあって、カメラは動かないが背景は動いていく。列車から降りた強盗たちが森の中に駆け込む場面では、カメラがパンを、つまり横に移動している。映画ならではの躍動感が既に生まれており、当時としてはかなり斬新な作品なのだが、基本的にはどのカットもメリエスの作品と同じように演劇の舞台を撮影するようなサイズで撮影されている。ただし、ラストで強盗が拳銃を撃つカットはアップに近いバストショットなのだ。ストーリー的には、強盗を追ってくる警官に向けての一撃なんだけれども、観客に向けて撃ったように見えるのが効果的だ。ポーターは、映画とは何か?をほぼほぼ発見しつつあった。この時点でのポーターはエジソン・スタジオのカメラマンであり映画監督であり、脚本家でありプロデューサーでもあった。ただし、この時点ではまだ厳密な意味での映画監督は誕生していない。カメラマンでもなければプロデューサーでもなくて(もちろん、それらと兼業でも問題はない)監督、ディレクターとしか言いようのないポジションはまだ確立されていない。