1908年のことである。短編映画を量産しつつあったポーターの元に一人の若者がやって来る。様々な職種を転々としながら舞台俳優もやり、演出家を目指していたデヴィッド・W・グリフィスはまず俳優として採用され、別の会社に売り込んだシナリオが採用されて脚本家兼俳優になり、その年のうちにバイオグラフ社で『ドリーの冒険』という作品の監督を引き受けることになった。この頃、バイオグラフ社にはアーサー・マーヴィンとビリー・ビッツァーというカメラマンがいて、彼らは監督的な仕事もできるけど根がエンジニアだから、基本的には撮影に専念したかった。マシントラブルも多かった当時のカメラをセッティングしながら、俳優たちに、「はい、ここまで歩いてきたら立ち止まって笑ってくださいね」みたいな感じで動きを指示したりする演技指導までやるというのは確かに面倒である。だから彼らが、俳優に対する説明だけをやってくれる係がいたら、撮影がスムーズに進むんじゃないか? と思ってしまうのは当然だろう。おそらく、映画監督という職業はそのようにして誕生した。当初は、忙しいカメラマンの補佐的な仕事だったのだ。
後の大女優リリアン・ギッシュの自伝によると、とにかく監督をやれる人材が不足していたのだという。何度でも言うけど、この時点での映画監督というのは現代とは違う現場の交通整理だし、そもそも世間の人は映画監督なんていう仕事があることすら知らないから、映画監督になりたい若者なんて、世の中に一人もいなかったわけです。
「グリフィスなら監督やれるんじゃないか?」と言いだしたのはマーヴィンだったという。おそらく、撮影現場でのグリフィスの立ち居振る舞いがよかったのだろう。今のように撮影、照明、演出という分業制が成立していなかった時代なので、撮影現場にはカメラマンとその助手、そして俳優しかいなかった。そんな時代だったから、俳優たちは今で言うところの助監督みたいな仕事もやらなきゃいけなかったわけです。カメラマンの視線はシビアなので、現場で立ち働く若手の中で、誰が優秀なのかはすぐわかる。自分で監督をやっていると、動きの良い助監督は目立って優秀に見えるから、こいつに監督をやらせてみれば面白いんじゃないかと思ってしまう。ちなみに、僕が初めてピンク映画を監督した時の助監督が城定秀夫で、若き日の彼は愛嬌があったし、スケジュールを管理しながら小道具などを準備する手筈も器用で敏速、つまり優秀な助監督だった。今では僕なんかよりもずっと有名な監督になったので、そのうちメシでも奢ってください城定監督。でないと、あることないこと言いふらすぞ。
というわけで、グリフィスは会社からの命令で監督をやることになったのだった。本人はあくまで演劇で成功したかったので、映画なんてのは単なるバイトでしかなかったんだけど、仕事が欲しいから渋々引き受けた。映画史では、ちょくちょくこういうことが起きる。いや実は、僕も元々は脚本家だったんだけどピンク映画の大ベテラン渡辺護監督の作品に現場応援で手伝いに行ったら、渡辺監督から「お前は監督向きだから監督をやれ」と言われて監督になったのでした。脚本家が監督をやると、脚本家としての仕事が減るのはわかっていたから(実際に減りました)その時点ではあまり監督をやりたくなかったんだけど、断るわけにもいかないから監督になったという点ではグリフィスと似たようなもんだ。映画監督になりたくてもなれない人がいた一方、監督などやる気のないヤツが上の人から「監督をやれ!」と言われて、断れなくて監督になってしまうということもあるんですね。変な業界だね。
映画の文法を発見したD・W・グリフィス(写真:Album/アフロ)
グリフィスが監督をやるにあたっては、撮影のプロであるビッツァーがいろいろとアドバイスしたようだが、この時点では彼が映画史を変えるレベルの大監督になるとは思えなかったという。そりゃそうだろう、そもそもこの時点では映画監督というのがどういう仕事なのか誰もまだわかってない。とはいえ、グリフィスの初監督作品『ドリーの冒険』は成功してしまった。つまり、劇場でヒットしたのだ。だからこそグリフィスは監督を辞めるわけにはいかなくなってしまったんだが、本来は演劇で成功したかったはずの彼が、映画という新しいメディアで成功をおさめたことで、あくまでバイト気分でやっていた映画をやめられなくなってしまった気持ちもわかる。ここから、グリフィスは膨大な量の短編映画を撮っては荒稼ぎするようになる。当時は短編ばかりだったからこそ、1作ごとにいろんなことを試みたわけだが、それが積み重なって、たった数年で超大作を撮ることになるわけです。グリフィスのキャリアの中で最も広く知られているのはもちろん『國民の創生』や『イントレランス』といった超大作だが、これらの超大作を撮る直前までは、10分から15分程度の短編を量産している。それらの作品の中で、グリフィスは様々な手法を試した。グリフィス以前の映画は、基本的に演劇の舞台を撮るようなサイズで撮影されており、『ドリーの冒険』も広い画角のフルサイズで撮られた映像を繋いで物語が観客に伝わるように作られている。おそらくだが、グリフィスはこの初監督作品で「映画というのは場面を繋ぎ合わせることで物語を伝える」メディアであることに気がついたのだろう。要するにモンタージュなのだ。映画で、ある場面(シーン)から次の場面に切り替わると、シーン1とシーン2の間にあったことは省略されるわけだが、観客の脳が想像力で勝手に空白を埋めるから、物語はスルッと伝わる。これが映画のマジックだ。グリフィスはそれを発見したのだ。元々が演劇人だから、いろんな場面の積み重ねでドラマが生まれることはわかっていた。
グリフィスは更に考えた。カメラをもっと俳優に近づけて撮影してみようと。その方が観客に伝わるんじゃないかな?と。カメラを俳優にぐんぐん近づけて撮影すると、クローズアップになるわけですよ。クローズアップの状態で悲しい顔や嬉しい顔をしていると、その役柄の気持ちが嫌でも観客に伝わるではないか。グリフィス以前にもクローズアップを撮った作品はあるんだけど、それがどういうことなのか、誰もあんまりわかっていなかった。なので、カメラが近寄ると俳優の全身が見えなくなるからと反対する人もいたというがグリフィスは積極的に実験的なことをやり、結果的に成功した。今では当たり前のことだけれども、どのようなサイズで撮るか、どのようなアングルで撮るかによって、撮影された映像が観客に与える印象はかなり変わる。
グリフィスが発見したのは、映画ならではの文法だった。舞台を撮影するようなサイズで撮影すると、登場人物が悲しんだりする場面では、全身を使って大袈裟に演技する必要があったけど、クローズアップで悲しげに泣いているカットがあれば、その登場人物の気持ちは簡単に観客に伝わりますよね。その結果、映画においては演劇よりもナチュラルな演技で観客に心情を伝えるノウハウができた。グリフィスは映画の文法を発見することで映画における演技のスタイルを革新したのだ。そして、カメラマンではなかったからこそ、玄人のカメラマンならまずやらないようなことも試してみた。たとえば、太陽を背景にして撮影すると人物の影が大きくなって絵画的で印象的な絵になる。ただし、この当時のフィルムの感度だと人物の顔は真っ暗になって潰れてしまうからカメラマンのビッツァーは猛反対したという。グリフィスは試行錯誤の結果、俳優の顔に反射光を当てればその表情が撮影できることに気がついた。いわゆるレフ板ですね。スマホで何かを撮影する際にも、白い下敷とかツルツルの白い紙で反射した光を顔に当ててやると、くっきりとした画が撮れます。