結論から言うと、言語が誕生して物語が生まれた結果、我々は物語のジャンキーになってしまった。
先に書いたように、文字が誕生したのは5000年から6000年くらい前のことで、世界最古の物語文学とされる『ギルガメシュ叙事詩』が5000年くらい前にはあったらしいけどオリジナルは残っておらず、4000年くらい前の写本が断片で残っている。旧約聖書は、キリストが生まれる1000年以上前、3500年くらい前から原形はあったらしいが、長い時間をかけて、今あるような形になったのは紀元前2世紀くらいだという。ここで重要なのは、文字はあったけれども、読み書きのできる人はごく一部の限られたエリートしかいない時代が長かったことである。日本だって、昔は教養のある貴族や武士、僧侶といった当時のエリートしか読み書きはできなかったわけです。江戸時代に寺子屋が普及したから、一般庶民にもじわじわと文字を読んだり書いたりするスキルが広がっていたところに明治維新があって、それ以降の義務教育システムが機能して、日本人の大半が読み書きができるようになったのだ。
活版印刷技術を開発したグーテンベルク(写真:Universal Images Group/アフロ)
西欧社会も似たようなもので、識字率が上がるのはグーテンベルクによる活版印刷技術が成立してからなのだが、活版印刷で聖書が印刷されたからといって誰もがそれを読めたわけではなかった。ルターによる宗教改革あたりから、識字率はじわじわと高くなってゆくのだが、誰もが文字を読めるような社会が到来するのは19世紀以降だと思ってよい。そして、その19世紀の終盤には映画が誕生するわけだが、その時点での欧米社会は誰もが読み書きのできるような状態ではまだなかった。
19世紀あたりまでの西欧社会に生きる人たちの多くは、文字が読めなかったけれども聖書に書かれた数々のエピソードについての知識はあった。聖書で描かれた物語は、文字を読めない人たちにも届いていたのだ。何故かというと、聖書を音読する文化があったからだ。当時の聖職者たちはライヴパフォーマンスで、聖書に記された物語をリスナーに伝授していたわけですよ。
何度も言いますが、ヒトは物語のジャンキーだから、たとえ文字が読めなくても、口承で語られる物語には熱狂してしまうわけですが、18世紀から19世紀にかけて、西欧諸国や日本といった一部の国では文字を読める人の数が急激に増えたのである。だから、そういった識字率の先進国においては、活字による物語つまり小説が全盛期を迎えた。
老人が孫に語る昔話も、教会で聖職者が聖書を読み聞かせるのも、はたまたシェイクスピアのような演劇も、基本的にはライヴパフォーマンスだ。物語というのは、ライヴパフォーマンスで多くの人々に伝わるものだったわけですよ。それが、印刷技術の発達と識字率の向上により、ライヴでなくても物語をエンドユーザーに届けることが可能になった。一種の情報革命が起きたと考えていいんですね。なにしろ、印刷によって本の大量生産が可能になったもんだから、売れたら売れただけ、また刷ればいい。なにしろ売れるということは、儲かるということですからね。演劇や演芸は昔からあったから、面白い物語をエンタメに仕立て上げたら観客が大勢来て儲かるということはわかっていたはずだけれども、マイクやスピーカーのない時代の演劇というのは、限られた人数の観客しかその作品を楽しめない。それに対して、印刷というのはいくらでも複製が作れる技術なのでヒット作が出た場合の儲けが桁外れに大きいわけです。つまり、小説産業というビッグビジネスが爆誕したわけだ。だから、19世紀は小説の時代と呼ばれるようになって、数々の名作が生まれたんですね。
19世紀の欧米の小説に大長編がやたらと多いのは、小説というお話の中に盛り込む情報量が増えたからだ。何しろ当時は映像メディアがなかったので(当たり前だ)、今だったら映像で撮影するような世相や風俗、流行りのファッションといったディテールを、当時の作家たちは、その文章力で記録しようとしたわけですよ。たとえばチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』を読むと、家族で食べるクリスマスのプディングがとても美味しそうに描かれているし、アレクサンドル・デュマの『三銃士』で主人公のダルタニャンたちが飲む葡萄酒は、これまたうまそうだ。この時代の作家たちは、それこそ小説を売るために描写の腕を磨いたから、おいしそうなものを本当においしそうに描く。ちなみに、この時代のイギリスではポルノ小説が流行したのだが、これも今読んでも感心するほど性的な場面が巧妙に描かれている。もちろん、それ以外の風俗を描くのもうまいんだけれども、食事やセックスの描写が細かくて丁寧なのは、読者にリアルなイメージを与えたかったからだ。小説の文章というのは、うまく描かれた場合には今でいうところのヴァーチャルリアリティのような効果を読者に与えるわけです。何事であれ、それがうまく描かれていると、読者は自分自身が体験しているような気分を味わうことになり、登場人物に深く感情移入ができる。
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ここで、有名な日本の小説の冒頭を引用してみましょうか。
『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。』(川端康成の「雪国」)
短い文章だけど、なんとなく映像的なイメージが脳裏に浮かんだのではないでしょうか。言葉には、映像的なイメージを喚起する性質があって、詩とか小説の文章はそのイメージ喚起力に依存している。ストーリーを楽しむ物語芸術というのは、基本的に受け手のイメージ喚起力がないと成立しない。大人が子供に昔話をする際には、はたまた大人同士であっても怖い話をする際には、いかにも本当にあったかのような口ぶりで語るでしょ。そうすると、聞き手の脳内でイメージが膨らむんですね。
たとえばだ、口裂(くちさ)け女の話を聞かされた子供がリアルな恐怖を感じて泣いてしまったりすることもあるだろう。少なくとも、その場には口裂け女はいないのに、脳内で膨れ上がった口裂け女のイメージに対して本気で恐怖を感じてしまうわけだ。そもそも言葉には、VR、ヴァーチャルリアリティみたいな機能があってですね、日本の俳句なんかは言葉のテクスチャー(質感)だけで成立しているようなところがあるんだけど、テクスチャーに振り切ったからこそ翻訳してもイメージ喚起力が伝わるから、英語圏に俳句の愛好家が大勢いるのである。
フランスならバルザックにゾラ、『三銃士』のアレクサンドル・デュマ、イギリスならディケンズと、19世紀に活躍して文豪と呼ばれるような作家たちは抜群の描写力を持っていたから、多くの読者のイメージをかき立てて出版産業が巨大化したわけです。デュマなんかは桁外れに儲けたから、桁外れに浪費した。バルザックは山ほどの借金を抱えて、せっせと小説を書いて荒稼ぎしたかとおもうと、また激しく浪費した。ギャンブルにハマって借金を背負ったドストエフスキーが借金返済のために新作を書いたら、文学史に残る数々の名作が生まれてしまった。イメージ喚起力の高い小説は、とにかく儲かったのである。だから19世紀は小説の時代と呼ばれるようになった、わけですよ。
そんな19世紀の終わり頃に、映画という画期的なメディアが爆誕したのだった。映画が観客に見せるのはイメージ喚起とかではなくて、ダイレクトにイメージそのものだ。当たり前の話ですけど、文章で「身長5メートルを超える巨大なゴリラ」と書くよりも、1933年に公開された映画である初代の『キング・コング』を見せた方がリアルに伝わる。
映画が誕生してすぐに、作り手たちはこれが物語を語るのに適したメディアであることに気がついてしまったし、デヴィッド・グリフィスのような映画人は試行錯誤を重ねて映画で物語を語る技法を文化進化させた、わけですよ。
19世紀を小説の時代と呼び、20世紀を映画の時代と呼ぶのは簡単だけれども、どちらも同じくストーリーを消費者に伝える物語芸術であり、共に大きなビジネスとなったから巨大な産業として発展したわけだ。その背後にあるのは、面白い物語を求める一般大衆の欲望であり、コンテンツ産業で儲けてやろうという作り手たちの欲望である。
この構図は、21世紀を迎えた今もあまり変わらない。我々はスマホやタブレットといったデバイスを駆使して漫画を読むし、アニメも映画も見る。昔と同じように紙の本も読むし映画館にも足を運ぶ。つまり、我々はもっともっと物語を楽しみたいんですね。この欲望はエンドレスなのだ。
参考文献
『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』
スティーヴン・ミズン著、熊谷淳子訳、2006年、早川書房
『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』
ジョセフ・ヘンリック著、今西康子訳、2019年、白揚社